1772年3月14日、ヒエロニムス・フォン・コロレド伯爵は前任の大司教シュラッテンバッハの死去によりザルツブルク大司教に就任した。
彼は由緒ある家柄の出身で、彼の大司教就任はハプスブルク家の後押しによるものだった。 彼の父ルドルフ・ヨーゼフ・コロレドは、オーストリア帝国副宰相を務め、兄フランツが1788年にその地位を継いでいる。また伯父カール・コロレドもドイツ騎士団のオーストリア管区長を務めた人物だった。
そんな大司教コロレドは、18世紀の啓蒙時代にふさわしく、厳格で思慮深く、贅沢を好まない知識人だった。ヨーゼフ2世を信奉し、ザルツブルクにおける政治や文化の改革を行なった。そんなコロレドがまずモーツァルトに求めたことは、教会での典礼音楽を短く45分以内にせよ、ということだった。
ザルツブルクの宮廷は、宮廷といってもあくまでもローマ教皇から任命された大司教が支配する宗教の世界であり、さまざまな制約が課せらていた。大らかな世俗の君主に庇護された宮廷音楽のように自由な創作はできず、天才音楽家モーツァルトと決裂。モーツァルトはザルツブルクを去ることとなる。
その後、ザルツブルクはナポレオンの支配を受けることとなり、1803年に司教領制度が廃止となり、大司教コロレドは封建領主としての世俗の権利を奪われた。
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