美術展めぐり MYセレクション



尾形光琳生誕350周年記念

大琳派展

継承と変奏

琳派を代表する芸術家たちの作品が一同に公開されました。すごい名品がずらり! その中から注目作品や自分なりに気になるものを選んで紹介しました。

本阿弥 光悦     俵屋 宗達
尾形 光琳      尾形 乾山
酒井 抱一      鈴木其一
※風神雷神図


本阿弥 光悦

足利尊氏の時代から刀剣の鑑定・浄拭・研磨などをしてきた京都の名家・本阿弥家に生まれ、幼い時から家業を通してあらゆる工芸に対する高い見識眼を育み、それに自ら学んだ和歌や書の教養を反映した芸術作品を制作しました。特に書の世界では「寛永の三筆」の1人に数えられて光悦流の祖とされるほか、陶芸では楽焼の茶碗、漆芸では装飾的な図柄の硯箱などが知られます。様々な芸術分野で才能を発揮した当代きってのマルチ・アーチストで、俵屋宗達や尾形光琳とともに琳派の創始者として後世の日本文化に大きな影響を与えました。また、徳川家康から拝領した鷹ヶ峯の地に本阿弥一族や町衆、職人などを率いて移住し、芸術村(光悦村)を築いたことでも知られています。 (1558〜1637 江戸初期に活躍 )


舟橋蒔絵硯箱 「舟橋蒔絵硯箱」  《国宝》 

 まず硯箱とはいえない丸く盛り上がった形におどろきますが、硯箱にはある和歌が記されています。題材になっているのは『後撰和歌集』に収められた源 等の「東路の 佐野の舟橋 かけてのみ 思ひわたるを 知る人ぞなき」の和歌ですが、「舟橋」の文字だけが抜けており、クイズのようになっています。ぱっと見ると気がつきませんが、金地に浮き出る舟のシルエットと帯のように渡された銀の橋で「舟橋」を連想するように工夫されています。
 「佐野の舟橋」は、群馬県高崎市の烏川に架けられた仮設の橋で、舟や筏を使ってつないだ上に板を渡したものだとか。万葉集の時代から和歌の題材として詠まれた歌枕だそうです

舟橋蒔絵硯箱 上から

黒楽茶碗 銘 雨雲 「黒楽茶碗 銘 雨雲 《重文》

 光悦は楽家の楽常慶、道入という大家たちのもとで茶碗作りを行いました。その昔、千利休が楽焼の始祖の長次郎に楽茶碗を作らせた時から、楽茶碗は全面に釉薬が施されているのが基本でした。しかし、この「雨雲」には、従来の定番から逸脱する革新的な作品でした。
 まず、口のあたりや腰のあたりに釉薬がなく地がそのまま見えています。さらに、口の部分は反り返り、腰は丸く高台は低く、従来の楽茶碗の名品とはかなり異なっています。


                                 
「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」
「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」

 絵:俵屋宗達、書:本阿弥光悦

 宗達が金銀泥で描いた絵の上に、光悦が三十六歌仙の歌を書いたもの。13m以上もある巻物に、群れをなして飛ぶ鶴が宗達によって描かれ、そこに光悦による力強い書がぶつかり合い、それが見事に調和しています。

 俵屋宗達は京都で「俵屋」という絵画工房を営んで扇絵の制作を中心に活動していましたが、光悦ほか烏丸光広など当時一流の文化人と交流し、彼らの書巻の下絵を描いており、今回での展示でも光悦と宗達の共作の和歌巻や短冊帖、屏風などが数多く出品されていました。
 こういった歌などを書き写すための料紙装飾は、元々平安時代の貴族階級の間で発達していたものだそうですが、江戸期に雅な王朝文化への憧れの一貫として京都を中心に再び流行したそうです。     

俵屋 宗達

 俵屋宗達は江戸時代初期の慶長〜寛永期に活躍し、琳派の創始者としても尾形光琳と並び称せられる大家ですが、現在の知名度と後世への影響の大きさの割りにその生涯は不明な部分が多く、生没年さえわかっていないそうです。おそらく京都市中で「俵屋」という絵画工房を営んで、主に扇絵を制作するかたわら、料紙の下絵や工芸的な絵画作品を手がけて当代一流の文化人だった本阿弥光悦らと交流し、その才能を認められていったものと思われます。皇室からの依頼で養源院の襖絵や杉戸絵なども手がけ、ついには町の絵師としては異例の「法橋」の位が宮廷から与えられました。一流の絵師の地位を確立した宗達は、さらに独自の技法やモチーフを取り入れた物語絵などを展開し、琳派の新しい流れを作っていきました。
 しかし、江戸後期から明治にかけて宗達の評価は低下し、ブームになるほどの人気だった光琳の陰で一時忘れられた時期があったそうです。しかし、後に再評価され、現在では光琳と同等、もしくはそれ以上の高い評価を得ています。宗達の描いた「風神雷神図」が光琳、抱一、其一と継承されていったことでも示されるように、後世の琳派の画家たちに大きな影響を与えています。 (生没年不詳、江戸初期に活躍)


「伊勢物語図色紙 芥川」 「伊勢物語図色紙 芥川」

「源氏物語」「平家物語」「西行法師」など古典文学にまつわる物語絵が数多く出品されていましたが、これもその一つです。
 この「伊勢物語図色紙」は36枚セットの中の一つだそうで、上部の賛は連歌師の里村昌程の筆によるもの。36枚の賛者は皇族や公家、武士、町人など様々だとか。
 この絵は、『伊勢物語』第6段の一節で、長い間思い続けた女を男がやっと連れ出して、芥川にたどりついた場面。宗達の生み出す物語絵は、従来の決まったパターンではなく、物語から独自のイメージで新しいモチーフを生み出していったところに特徴があるそうですが、この作品は見つめ合う男女の情感が伝わってきて古典モノにしてはなかなかのインパクトです。


「白象図・唐獅子図 杉戸」 《重文》

 三十三間堂に隣接する養源院の杉戸絵。養源院は、豊臣秀吉の側室の淀君が父の浅井長政の菩提寺として創建したものですが、火災に遭い、1621年に徳川秀忠が正室・崇源院(淀君の妹)の願いにより伏見城の遺構を移築して再建し、徳川家の菩提所となったそうです。
 宗達はその再建時にこの杉戸絵を描いたそうですが、このような将軍家ゆかりの寺の装飾に宗達のような町絵師が抜擢されるのは異例のことだったそうです。

白象図杉戸 唐獅子図杉戸


尾形 光琳

 琳派のシンボル的な絵師で、「琳派」という呼び方の由来ともなっているのが「尾形光琳」です。
 徳川秀忠の娘・後水尾院の女御となった東福門院など上流階級を顧客とする京都有数の呉服商・雁金屋の次男として生まれますが、兄の代のになって雁金屋は傾き閉店に追い込まれます。弟の乾山とともに多額の財産を贈与されていましたが、社交的で派手好きだった光琳はたちまち金銭的に行きづまり、自活の手段として30代後半から本格的に絵師としての活動に取り組むようになります。銀座役人・中村内蔵助などの後援を得て京都で活動していましたが、法橋位を得た後の40代後半に江戸に下って酒井家などに仕えていた時期もありました。京に戻り、晩年は59歳で没するまで精力的な創作活動をしています。
 光琳は光悦・宗達に心酔して、彼らの作風を踏襲するような作品を生み出し、将来の優れたデザイナー的素質も相俟って大胆な装飾性を特徴とする新しい様式を確立しました。絵画だけでなく工芸デザインも数多く手がけ、弟の乾山との合作も数多く残しています。光琳の人気は没後も続き、18世紀前半は光琳風のデザインが流行して「光琳模様」と呼ばれるデザインが工芸品や着物柄などに好んで取り入れられました。    (1658〜1716 江戸中期に活躍)


 「八橋蒔絵螺鈿硯箱」 《国宝》

 光琳が好んで取り上げた『伊勢物語』第9段の「八橋」を題材とした硯箱ですが、主人公の在原業平や従者の姿は省略され、物語に登場する燕子花と八橋がクローズアップされています。工芸品ではこういった「留守文様」の手法がよく用いられたそうです。
 燕子花の葉は金の平蒔絵、花びらは厚い鮑貝を用いた螺鈿、橋板は鉛、橋ぐいは銀の板を用いて表現し、重厚な中にも明るい雰囲気のデザインになっています。 硯箱の上段は硯と水滴を収める硯箱、下段は紙などを入れる料紙箱の2段重ねになっていますが、それぞれの底面には金の平蒔絵で波が一面に描かれていて、八橋のかかる川の水の流れが表現されています。また、鉛板の橋は蓋の表と4つの側面のすべてに連続するような構図になっているなど、随所に機知に富んだ光琳ならではの工夫が見られます。ぱっと見だけでなく、解説を読んでじっくりその細工のあれこれを知るとより素晴らしさを実感する一品です。さすが国宝となるだけはありますね。


「燕子花図屏風」 《国宝》

 『伊勢物語』第9段、失意のうちに東国に下っていく主人公の在原業平は、三河の国の八橋で一面に咲く燕子花(かきつばた)を見て、「から衣 きつつ慣れにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ」という望郷の歌を詠んで涙します。この歌には5・7・5・7・7の頭に「か・き・つ・ば・た」を詠み込まれているそうです。光琳は『伊勢物語』の「八橋」に由来する燕子花や燕子花と八橋をミックスした作品を数多く残しています。 この作品は光琳が40歳代中ごろのもので、比較的初期の代表作といえます。

 

「三十六歌仙図屏風」

 三十六歌仙とは平安時代中期の歌人・藤原公任によって選ばれた三十六人の和歌の名人で、歌仙図は鎌倉時代以後好んで描かれたそうです。
 従来の歌仙図は歌仙の略歴と詠歌を書き添えた絵巻物の形体をとることが多かったそうですが、光琳は活躍した時代も微妙に異なる歌人たちをまるで歌会を催しているかのように一図の中に描き込んでいます。歌仙それぞれの顔の表情などもそれぞれ個性をとらえてイキイキと描かれていて、思わず一人一人に見入ってしまいます。誰が誰であるかも非常に気になるところです。
 この絵の中に36人が描かれているのか数えるのはなかなか大変ですが、実はこの図に描かれている歌仙は全部で35人なのだとか。高貴な身分の斎宮女御(徽子内親王)だけは几帳の中にその姿を隠しているのだそうです。
 この「三十六歌仙図」は酒井抱一はじめ琳派の多くの画家が継承して同じ画題の作品を描いています。今回の展覧会では鈴木其一作の掛軸が出品されていました。


「秋草図屏風」 2曲1双

 菊、薄、萩、桔梗、女郎花、撫子などの秋の野の草花が軽やかに描かれ、その見事な描写にうっとり見とれてしまいました。特に、立体感をもって描かれた白菊は、白い落雁のようなぽってり感が何ともいえません。

「秋草図屏風」全体
全体

「扇面貼交手箱」
「扇面貼交手筥」

 光琳は絵画の分野だけでなく、団扇や扇のほか硯箱や印籠、弟・乾山の焼物など多岐に渡る日用品の絵付けやデザインなど幅広い制作活動を行ないました。光琳の工芸家としての名声は画家としてのものを上回るほどで、「光琳模様」と呼ばれて当時の流行だったそうです。
 この手箱は、後世の好事家が使用済み扇面画や団扇絵を集めて、手箱に貼りあわせたものだそうですが、当時、流行の最先端だった光琳芸術の人気の高さを示す一品です。
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光琳と乾山の兄弟コラボ作品
「色絵定家詠十二ヶ月
          和歌花鳥図角皿」 

 兄の光琳が絵を描き、裏に乾山が書をしたためた角皿のシリーズ。藤原定家の十二ヵ月一首ずつ詠んだ和歌を狩野探幽が描いた「定家詠十二ヶ月花鳥図色紙」を角皿に描きこんだもの。
 乾山はこの題材がお気に入りで絵画も数多く残しているそうですが、角皿は今回の展示品を含め4組ほど作られ現存しているそうです。当時は今のように工業製品が簡単に作られなかったので、人気シリーズといえども数点しか作られず貴重でした。まさに限られたものだけが味わえる一品だったといえます。

色絵定家詠十二ヶ月和歌花鳥図角皿
(1月〜4月)

     銹絵 牡丹図角皿


 「銹絵 牡丹図角皿」

この角皿はたたら作りで四方形に成形し、その上に白化粧を施した焼き物で作られた色紙ともいうべきもの。光琳が銹絵で水墨画風の絵を描き、乾山が賛を加えた書画一致の風雅な作品。

尾形 乾山

 尾形光琳の5歳違いの実弟で、京都の呉服商・。雁金屋の三男に生まれる。陶芸を志し、野々村仁清に京焼を学び、京の郊外に鳴滝窯を開き、鳴滝が京の乾の方角にあることから「乾山」と名乗る。その後、洛中の二条丁字屋町に窯を移転し、より日用的な食器などが数多く作られるようになり、器とデザインが見事に調和した芸術的な作品を多く生み出しています。
 社交家で何事も器用な兄・光琳に対して、乾山は学問や読書、隠遁を好む地味な性格だったそうですが、終生仲の良い兄弟だったそうです。光琳の絵に乾山が書を書くという詩書画一体の文人画的な合作を数多く残しています。乾山は69歳の時に京から江戸に下り、81歳で没するまで江戸で暮らしましたが、作陶のほか晩年には作画も行なって絵画作品を残しています。 (1163〜1743 江戸中期に活躍)


「色絵吉野山図透彫反鉢」

 乾山の焼きものは色鮮やかでデザイン性に優れたものばかりですが、特に透鉢や火入れなどは個性的で芸術性も高く、一度見ると強く印象に残る作品が多い。
 この反鉢は内側と外側両方に桜の木々が描きこまれ、山一面を桜に覆われる吉野山のイメージをうまく表現しています。

 

 色絵吉野山図透彫反鉢

左上:撫子  右上:梅  「梅・撫子・萩・雪図」

 この4幅対は、元々は袋戸用の小襖絵だったものを軸装にしたもので、「雪図」の中に80歳の年記があるので没年の前年の1742年に描かれたものと思われます。

 陶芸家として活躍した乾山は、晩年の70台過ぎから絵画の制作にも取り組むようになりました。作画に当たっても兄・光琳の作風の影響が見られ、梅を描く際に「たらし込み」の技法を用いているところなどに琳派ならではの特徴が見られます。また、画の中に和歌を書き込んでいるところは、画文一致の乾山の文人趣味をよく表している作品といえます。
 なお、普段使われる「乾山」は陶工しての雅号で、書画においては「深省」という号を用いてたそうです。

左下:雪  右下:萩

酒井 抱一

 光琳後の琳派を継承することになる酒井抱一(本名/忠因)は、光琳の没後50年ほどして1761年に姫路藩主の酒井家の次男として江戸藩邸で誕生。少年期に両親を相次いで失くし、家督を継いだ兄の忠以の元で成長しました。藩主を務める6歳上の兄は宗雅と号し能や茶道などに通じる風雅な趣味人で、その影響を受けて抱一も浮世絵や狂歌などをたしなんで青春を謳歌しました。しかし、抱一30歳の時に兄が急逝すると、酒井家を離れ37歳の時に出家、本格的に画業に取り組み始めました。
 当時流行していた光琳様式に影響を受け、次第に光琳に傾倒。光琳画や伝記などをを探し求めてその研究をしただけでなく、1815年の百回忌記念の光琳展覧会を催したほか、『光琳百図』前後編などを刊行するなどを功績を残しました。琳派の装飾的な画風を継承するだけでなく、さらに洒脱で叙情的な江戸流の作風を確立して「江戸琳派」の創始者として活躍しました。50歳代後半から60歳代前半にかけて「草花図」や「四季花鳥図」などの秀逸な傑作を数多く生み出し、68歳で生涯を終えました。
  (1761〜1828 江戸後期に活躍)




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 「夏秋草図屏風」 《重文》 

 元々は尾形光琳の「風神雷神図屏風」の裏に描かれていた作品だそうですが、勇ましい「風神雷神図屏風」とは正反対ともいえる爽やかな雰囲気の作品です。尊敬する光琳の作品の裏に描くということで、かなりの下絵や習作を残しているとのことですが、雷神に対して「雨の中の夏草」、雷神に対して「風に吹かれる秋草」が対比されています。酒井抱一の描く草花は秀逸で、その描写の巧みさと色の鮮やかさで見るものを釘付けにします。
 琳派の特徴ともいえる金地の豪華な雰囲気とは違い、銀地に余白もたっぷりで凛とした清々しさを感じる作品なのですが、劣化により茶色に変色しているのが目立つのが残念です。


「四季花鳥図巻」 「四季花鳥図巻」 (部分)

 春夏と秋冬の2巻から成る四季の草花を描いた絵巻。これは秋冬の巻頭部分で、画面の上に半分顔を覗かせた銀の月や紅白の萩に秋の風情を感じます。
 絹地にカラフルな色彩で様々な草花や鳥、虫などが描かれていますが、の枝などを斜めに細長く描くなどの工夫して絵巻を広げていくたびに自然に季節が移ろっていくように描いています。
構図も変化に冨んでいて、抱一の生み出す四季の光景の美しさににすっかり魅了されてしまいました。 


「12ケ月花鳥図」

 「十二ヶ月花鳥図」 
 米国ファインバーグ・コレクション


1年12カ月の花鳥を描いた12幅が一同に公開されていました。どの月も繊細で、草木や季節の花、鳥などがイキイキと描かれていました。全体的に優しく華やかな雰囲気です。やはり抱一の花鳥画は素晴らしいと実感しました。 ここに画像を紹介していませんが、11月、12月に登場する雪の描写が巧みで見惚れてしまいました。
 「十二ヶ月花鳥図」は江戸時代より狩野派をはじめ多くの画家たちが描いてきた題材だそうで、光琳や乾山も作品を残しています。抱一もこの「12ヶ月花鳥図」シリーズを何作か制作していて、手元にあった別の画集で見比べてみました。そちらは宮内庁所蔵のシリーズで、図柄がちょっと違いますが、同じように構図に変化がありながら繊細で優しい雰囲気の魅力ある作品でした。


 

「光琳百図」

 熱心に光琳の研究を行なっていた抱一は、1815年の光琳の百回忌に記念の法要と展覧会を行なったほか、琳派の印を集めて解説を付けた「緒方流略印譜」の刊行や光琳の写しの掛軸百幅の制作など様々な試みを実行しました。『光琳百図』もこれらの追善供養の一環として制作されたもので、展覧会に出品された42点を含む99点を収録した上下2巻からなる版本です。抱一が江戸で実際に見ることのできた光琳の作品の図柄をまとめたもので、若き日の鈴木其一も下絵を手伝っているそうです。
 しかし、展覧会には間に合わず、実際の刊行は百回忌から数ヶ月もしくは数年後になったとか。1826年(文政9年)には後編の上下2巻も出版されています。
 印刷のなかった時代には、これが美術全集のようなものだったと思うとなんだか感慨深いものがあります。



                                 

 「四季草花蒔絵茶箱」  

 この艶やかな蒔絵茶箱は、当代きっての人気アーティストだった酒井抱一と蒔絵師・原羊遊斎のコラボ作品。蒔絵には作者の銘は入らないのが普通だったそうですが、この2人の場合は揃って大きく刻まれ、当時の2人のブランド力の高さが伺えるのだとか。この茶箱以外にも2人の手に寄って印籠や盆なども制作されています。
 茶箱は茶碗や茶入れなど茶道具一式を収納する携帯用の箱で、表面だけでなく、懸子や見込みと呼ばれる部分など箱全体に四季折々の草花が描かれています。表面に貼られた菊図が途中で途切れていたり、光琳の朱印が捺されていることから、元々は光琳が描いた菊図を再利用したのではないかと見られているようです。調和の取れた出来栄えも素晴らしいですが、そういった制作過程にも興味を惹かれる一品です。

下絵:酒井抱一、蒔絵:原羊遊斎
    
四季草花蒔絵茶箱


鈴木 其一

 神田の紫染職人の子として生まれ、幼い頃より酒井抱一の弟子となり、後に抱一門下の酒井家家臣の鈴木家に婿入りし、その家督を継ぎました。早くから抱一の代作を務めるなどその才能を発揮し、師の抱一の作風を踏襲した花鳥画などで多くの優れた作品を生み出しました。その後、師の影響を脱し、独自の先鋭で近代的な画風を確立していきました。 (1796〜1858 江戸末期に活躍)


「秋草・月に波図」 (左)「秋草・月に波図」 (右) 
  「秋草・月に波図屏風」   二曲一双

表には鮮やかな秋の七草が描かれ、裏には金泥で月と波が描かれています。2枚の絹絵は裏打ちせずに太鼓張りになっていて、裏から光が当たると表の秋草の背景に月と波の陰影がうっすらと浮かぶつくりになっています。展示会場でもライティングで明暗が変わるようになっていて、月と波が浮かんでくる様が鑑賞できました。これぞイキですね。


「夏秋山水図屏風」 秋 「夏秋山水図屏風」 夏
 夏秋山水図屏風   6双1曲

6客1双の屏風で、左が秋で、右が夏。
水の流れの迫力を感じるものの、全体的に時がとまったような澄み切った静寂感を漂わせています。
色彩も原色に近い鮮やかさながらどこかどっしり落ち着いた味わいで、独特の雰囲気に思わず引き込まれます。
鈴木其一の力量の高さを感じさせる大作で、今回の展示の中でも最も印象に残った作品の一つです。


「最首の図」と「東下り図」 

 掛軸の周りの表具に絵を描かれたものを「描表装」というそうですが、この技法を其一は好んだそうです。
 一見ごちゃごちゃして中央の絵を台無しにしてしまいそうなものですが、この2作品を見ると、表具の部分は鮮やかな色彩ながらすっきりと描かれ、全体としてバランスが取れており、見るものを飽きさせない魅力があります。画家の力量とともにセンスも問われる技法を見事にものにしているようです。


左 「歳首の図」  

春を告げる鶯と梅を描いた歳首(新年)を祝う掛軸。本絵の鶯の部分は控えめに描いて十分余白を取り、華やかな描表装がぐるりと囲んでいる構図。上から張り出した梅が本絵と描表装部分をうまく調和させています。



 「東下り図」

 描かれているのは光琳も好んで描いた『伊勢物語』第9段「東下り」の場面で、馬上の貴人は在原業平。この掛軸の描表装には、桜や紅葉、つくしなど四季折々の花や草木が描かれていて見るものを楽しませてくれます。