クリムト、シーレ                
ウィーン世紀末展
「ウィーン世紀末展」

日本橋高島屋で開催された「ウィーン世紀末展」に行ってきました。展覧会のタイトルに「クリムト、シーレ」と付きますが、主役の2人を取り巻くウィーンの美術界やそこで活躍した画家たちがバランス良く紹介されていました。「ウィーン分離派」や「ウィーン工房」など、当時の新しく生まれた芸術活動について知ることができて、有意義な時を過ごしました。展覧会は見応えがあるので、最低でも1時間、解説などもちゃんと読んで見て回ると2時間ぐらいかかります。
 展覧会のレポートは、クリムト、シーレの作品を中心にウィーン世紀末の美術界について自分なりにまとめました。この時代の芸術は、奥が深く、幅が広いので、知れば知るほど興味が尽きないですね。
勉強になりました!

    

第1章   装飾美術と風景画
第2章  グスタフ・クリムト
第3章  エゴン・シーレ
第4章 分離派とウィーン工房

第1章  装飾美術と風景画

 第1章は、19世紀末から20世紀の初めまでの、数多くの画家たちの作品が並んでいました。聞いたことがない画家の作品ばかりなので、作品番号と解説をチェックしてメモを取りながらじっくり見て回わりました。
 まず展覧会の最初を飾るのは、ウィーン工芸美術学校でクリムトの師であったフェルディナンド・ラルフベルガー「プラター公園で楽しむ庶民たち」。当時のウィーンの一般庶民が公園で思い思いの時を過ごす和みの作品です。
 それから、「子供たちの絵」という作品が展示されていたハンス・マカルトは、19世紀のウィーン美術界を代表する芸術家だそうで、ウィーン美術アカデミーの歴史画の教授も務め、ウィーン装飾画の発展に大きな影響を与えた人物だとか。イタリアで描いた作品がフランツ・ヨーゼフ1世の目に留まりウィーンに招聘されたそうです。ここらあたりが19世紀後半のウィーン美術界の重鎮だったようですが、まだアカデミックな絵画が画壇の主流だったことが想像できます。 

 そのほかで注目した作品をあげると、ちょっと幻想的な雰囲気のエミール・ヤコブ・シンドラーの風景画「森の小道」。どこかに焦点を当てるのではなく、全体に情緒を醸し出して描かれているのですが、こういった作風の特徴を「詩的リアリズム」というそうです。
 そして、右上の画像の作品はマリー・エグリ―という画家の「山ツツジ」という作品です。手前の赤い花と幻想的な背景のコントラストが素敵でした。これも詩的?抒情的な雰囲気と赤いツツジの力強さが印象的でした。
 そのほかでは、フーゴー・ダルナウト「シュトゥーベントーア橋」という作品もなかなか見応えありました。中央にタイトル名になっている橋が描かれ、どっしりとした構図なのですが、空が紫がかってて抒情的で、少し印象派ぽい雰囲気が素敵だなと思いました。

 この展覧会で特に私が注目したのは、絵を囲む額縁でした。展覧会の絵画といえばゴールドや木製のどっしりとした額に飾られているのが定番ですが、ここのは一見シンプルでモダンな雰囲気で、それぞれどこかに趣向を凝らした装飾がされているのが特徴です。さすが、新しい装飾美術が発展しただけあるなーと思いました。
 といわけで、絵を見るのと同じぐらい絵の周囲の額の装飾を鑑賞し、メモ帳に自分なりに特徴を描いてみたのですが、画才がないのでイマイチでした・・・(涙)。額のついた絵画そのものを紹介できればいいのですが、写真撮影可の美術館の常設展示などでないとなかなか額付き画像は手に入らないので残念です。
 特に、額縁に惹かれた作品をあげると、シャルル・ヴィルダ「ライナーとシュトラウス」。ウィンナーワルツの創始者とされる作曲家でバイオリニストのヨーゼフ・ライナーとシュトラウス1世が

「山ツツジ」 マリー・エグリー (1896年)
「イーゼルの前の自画像」

「イーゼルの前の        自画像」
 スザンネ・レナーテ  ・ グラニッチェ       1899年
 120.5×72.5p











舞踏会でワルツを演奏して大成功したシーンを描いたものです。上部に垂れ幕のような布が左右に覆いかぶさり、絵のテーマとマッチしています。また、他にはスザンネ・レナーテ・グラニッチェ「エディト・グラニチェ」「イーゼルの前の自画像」も趣向の凝らされた額に注目た作品です。
 どんな額縁にするかによって絵画の雰囲気をかなり左右するんだなーと実感させてもらったコーナーでした。
 

第2章 グスタフ・クリムト
「テレーゼとフランツ・マッチュ」

「テレーゼとフランツ・マッチュ」 
フランツ・フォン・マッチュ (1902年)

 続いては、この展覧会の主役の1人グスタフ・クリムトのコーナー。クリムト自身の作品は8点展示されていましたが、彼と関連の深かった2人の画家の作品もこのコーナーにありました。まずは、簡単な経歴をご紹介したいと思います。

グスタフ・クリムトグスタフ・クリムトは、ボヘミア出身の彫版師を父とし、1862年にウィーン郊外のバウムガルテンに生まれました。ウィーン工芸美術学校を卒業後、2歳年下の弟エルンストや友人のフランツ・フォン・マッチュと共に「芸術家商会(キュンストラーカンパニー)」を結成し、1882年から10年間、共同で様々な制作活動を行ないました。主な活躍は装飾美術の分野で、ブルク劇場の天井画やウィーン美術史美術館の壁画などを手掛けたそうです。
 クリムトたちは最初はアカデミックな装飾美術を手掛けていたものの、次第にウィーンの保守的な体質と合わなくなってきました。パリなどヨーロッパの都市では市民のための芸術がどんどん発展していたのに、ウィーンの芸術はあいかわらず保守的で、伝統だけが重視されていたのです。そんな殻を打ち破ろうと意気上がったクリムトたちは、1897年にウィーン造詣芸術家協会を脱退し、若手を中心とした「ウィーン分離派」を設立しました。その初代会長となった当時35歳のクリムトを中心に、ウィーン分離派は展覧会や出版などを通して、現代につながるモダンデザインの成立に大きな役割を果たしていきました。


 まず、最初の展示はフランツ・フォン・マッチュ「テレーゼとフランツ・マッチュ」。すっごく可愛い!! 画家のあふれんばかりの愛が伝わってきます。まさしく、愛娘と目に入れても痛くない息子。編み物をしているお姉ちゃんのテレーゼは、ちょっと緊張しながらポーズを取っている弟のフランツくんを優しい眼差しで見つめています。マッチュさん、幸せなパパさんだったんですね! こちらはクリムトの「パラス・アテナ」に似たタイプのゴールドの枠組みの額入りでした。
 続いて、グスタフ・クリムトの初期の作品「寓話」(1883年)。一見してこの頃はまだ歴史絵画の流れのアカデミックな作品を描いていたことがわかります。これはゲルラ出版の図版「アレゴリーとエンブレム」のための構想で、イソップの2つの寓話から発想してものなのだとか。動物たちを多様な民族で構成される社会全体に置き換えており、人間も民族や宗教の枠を越えて助け合ったり譲り合って共存していくべきということを訴えています。

 続いては、同じくグスタフの1884年の作品「牧歌」。四角や円形の枠組みの中に描かれた構図といい、人間の肉体美を讃えるような描写は、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の壁画をはじめとするルネサンス絵画を連想させます。後年のクリムトのエロティックな作風とはかなり異なりますが、絵の技量の確かさが見て取れました。

そして、色鉛筆で描かれた「画家カール・モルの娘マリー・モル」(→)。
こういう優しい絵も描くんだなぁーとクリムトの新たな1面を見た新鮮な1枚でした。

「寓話」 グスタフ・クリムト
「寓話」の部分 「寓話」  グスタフ・クリムト
      (1883年)

ツルはキツネにもらった平たいお皿に入った食べ物をうまく食べれないが、逆にキツネはツルの細口の瓶に入った食べ物を食べることができない(→)
 また、ネズミを助けたライオンは、今度は自分が罠にはまって動けなくなった時に、ネズミに助けられた。
「牧歌」
「牧歌」  グスタフ・クリムト  (1884年)

 続いて、2点出品されていた弟のエルンスト・クリムトの作品の1つを紹介したいと思います。
 この「宝石商」という作品の形は半円形なんですが、アップで紹介するために端っこをカットした画像です。バックの金色の模様もきらびやかで素敵なんですが、左側の女性の肌が透き通るような美しさで、まさに宝石のようなけがれのない輝きでした。また、金色の帽子や洋服、うねるような褐色の髪の毛なんかも近くでみるとすごく素敵で目が吸い込まれてしまいます。右側の宝石商の男性は少し暗めなので、どうしても若い女性の方に目がいってしまうのですが、男性の手元にある「宝石箱」には注目しました。
 この作品を見るだけでも、弟のエルンストは兄グスタフと並ぶような才能の持ち主であるに違いないのですが、彼は28歳という若さで夭折してしまったとか、、。

 さて、次はグスタフ・クリムトの代表作の1つである「パラス・アテナ」をご紹介しましょう。黄金をベースにした装飾的な作風は、いかにもクリムトといった雰囲気です。「パラス・アテナ」とは、学術と学問、知恵、戦いなどを司るギリシャ神話の女神で、クリムトは自分たちの立ち上げたウィーン分離派の守護神として描いたのだとか。
 注目すべきなのは、胸の舌を出した「ゴルゴネイオン」。ギリシア神話のゴルゴンの首が怪物を石化させた故事に因んで作られたという一種の魔除けです。今でもギリシアではお土産として売られているのだとか。会場の解説では、クリムトはこのゴルゴネイオンを保守的なウィーン画壇に挑戦する意味で描いたとされていましたが、なるほどですね〜。
 右手で持っている小さな裸婦像は、真実の擬人像である「ヌーダ・ヴェリタス」。それから、右上のほうなどよーく見ると人か動物かよくわからない生き物が描かれているのにも注目です。
 そして、装飾画家ならではの、額縁も見逃せません。シンプルな中にも装飾性に富んでいて、世紀末芸術の粋をここに感じました!

 最後に、1905年頃に制作された「恋人たち」。この作品は少し前にTVの某美術番組で紹介されていたのを見て興味があったのですが、実物はとても素敵でした。
 キリスト教の三連祭壇をイメージした造りで、両脇の金地の上部に薔薇が描かれ、中央に抱擁し見つめあう男女が描かれています。実物は緑色の木枠に囲まれていたのですが、右の画像は金のラインで囲まれた絵ハガキバージョン。
 恋人たちは暗闇の中で浮かび上がるように描かれており、とても幻想的。その上部には様々な年齢の女性の顔が描かれています。クリムトは何を訴えたかったのか? 人間の精神や永遠の夢の世界・・・? 幻想美術のような芸術世界を造り上げています。どこか気品を感じされる男女の静かな情熱が見る者を惹きつけるだけでなく、三連祭壇のような造りのせいか、どこか神聖な雰囲気さえ漂わせています。

「宝石商」 エルンスト・クリムト

「宝石商」 エルンスト・クリムト (1889年)

「パラス・アテナ」 

「パラス・アテナ」 グスタフ・クリムト 
(1898年)
 75.0×75.0p

「恋人たち」



「恋人たち」
 
グスタフ・クリムト
(1904‐05年)

 54.9×34.9p

第3章 エゴン・シーレ
「意地悪女」

「意地悪女」
エゴン・シーレ
1910年

 さて、次はこの展覧会のもう一人の主役エゴン・シーレのコーナーです。最初の方に、ウィーン美術アカデミーの仲間で、後にシーレの妹のゲルとルーデと結婚したというアントン・ペシュカの描いたシーレの肖像画がありました。これは個性的な色彩でした。その色遣いをうまく説明できませんが、レインボー系のようなかんじでした。
 シーレは妹のゲルトルーデをモデルにたくさんの絵を描いているのですが、妹の裸を描くなんて、普通では信じられません! 美しくではなく、赤裸々にですよ・・! 左の「意地悪女」16歳のゲルトルーデがモデルだそうですが、「ざまみろ!」とほざいているような柄の悪さです。これで16歳? もう純粋さも失ってしまった年老いた婆さんってかんじにビックリ。兄妹ケンカでもした後、腹だたしまぎれに描いちゃったのでしょうか?

エゴン・シーレ シーレの人間の内向性を描く表現主義的な傾向は、ゴッホの影響があるそうですが、なぜ彼はこのような内面を持たざるえなかったのでしょうか・・・? 
 この展覧会鑑賞後に、クリムトとシーレを特集したある美術番組の録画を復習して見てみたのですが、シーレの性に関する倒錯した感情は14歳の時に父親を梅毒で失くしていることに関係しているそうです。梅毒の気が狂わんばかりの苦しみを見たシーレは、性に対する欲望と恐れが内面で葛藤して、自分ではどうすることもできなかったのだとか。そういう背景を知ってから見ると、自慰のシーンの作品なども多かったり、退廃的ともいえる彼の作風も理解できなくもありません・・・。
 シーレはグスタフ・クリムトから紹介されたというヴァリという10代の女性と21歳ごろから4年間同棲し、彼女をモデルとした作品をたくさん残しています。円熟期にあったクリムトは28歳も年が離れた若さあふれる新進気鋭のシーレを高く評価したそうですが、師としてというより友人として親しい付き合いがあったのだとか。
 シーレは、このヴァリだけでなく少女期の女性の裸に非常に関心を持ち、街で声をかけては裸のポーズを取られせたりもしたそうです。家出少女をかくまい、未成年者を誘拐してわいせつ図画を未成年者に見せた罪で24日間拘留されたりもしています。真相は謎の部分もありますが、あまり評判の良くなかったシーレは、画家として認められることもなく、すさんだ日々を送っていたようです。彼の描く人物が身体をくねらせ、もがいているようなのは、そういった苦悩やしがらみなどを表現しているのかもしれません。
 しかし、当時のウィーンは上流階級だけなく一般市民も保守的だったそうなんですが、実は両極端な二面性をもっていたそうです。うわべのウィーンは体裁を重んじ上品ぶる風潮があったもの、裏では売春や性病が蔓延し、町の裏側では死者の匂いが立ちこめていたとか。それで、それまでの常識を覆すようなクリムトやシーレの官能的・退廃的な作風にも一見冷たい目が向けられているようで、ひそかな支持を集めていた側面があったとそうです。
 上から2番目の肖像画は1911年に描いた「自画像」です。比較的普通のポーズで描かれていますが、異様な指やこちらをじっと見つめる視線などは特徴的です。シーレの作品にしては、意志の強さや生命力などを感じる作品です。クリムトが自画像をほとんど描いていなかったのに対し、シーレは数多くの自画像を残しているのが特徴です。
 3番目の茶色のスーツを着た男性は、シーレの良き理解者だった支援者の「アルトゥール・レスラー」です。このポーズとても気になりました。彼とともに彼の妻イーダもシーレは描いているのですが、このイーダ・レスラーは他の画家のモデルとしても登場していたので、彼ら画家仲間のニューズ的な存在だったのかと想像できます。そんな美女には見えなかったのでちょっとそこは謎です・・・。

 最後に紹介した作品は今回の展示にはなかったのですが、シーレの「家族」を描いた作品です。家族を描いた絵まで裸でなくてもいいと思うのですが・・・・!?  内面を重視する彼にとっては洋服というものが、もはやあまり意味がなかったのかもしれませんね。
 シーレは1915年にヴァリと別かれてエディトという女性と結婚し、その後は精神的に少し落ち着いた生活を送ってました。しかし、1918年に突然の不幸が訪れます。子供身ごもった妻エディトがスペイン風邪であっけなく他界し、その3日後に後を追うようにエゴン・シーレも彼も28歳の短い生涯を閉じたのです。

「自画像」

「自画像」  1911年

「アルトゥール・レスラー」

「アルトゥール・レスラー」  1910年


「家族」  1918年

第4章 分離派とウィーン工房

 クリムトらが設立した「ウィーン分離派」は、自分たちの作品の展覧会ではなく、印象派や日本美術などを紹介する展覧会を積極的に企画し、ウィーン世紀末芸術の展開に大きな影響を及ぼしました。
 1898年4月の第1回ウィーン分離展には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が訪れたそうで、その時の様子を描いたルドルフ・バッハーの作品が展示されていました。会長のクリムトやカール・モルらウィーン分離派の主要メンバーたちが皇帝を出迎える姿が描かれています。それまでの芸術から反発するように新しいグループを立ち上げた彼らにとって、皇帝に公式に認められるということは、ウィーン芸術界での地位を確固たるものにした証しとになります。
 クリムトたちは皇帝に謁見してオープニングへの臨席を願い出たそうですが、都合が合わずなかったため、後日、皇帝は展覧会場を訪問したのだとか。エピソードとともにこういったシーンを見れるのはとても興味深かったです。
 また、1900年の第6回分離派展では日本の浮世絵版画が特集され、大きな反響があったそうですが、そのポスターが展示されていたのも注目でした。
 そして、近代的な装飾的建築物を次々生み出したオットー・ワーグナーの「シュタインホーフの教会(草案)」が展示されました。彼のデザイン画は1点のみでしたが、ウィーンの近代建築の発展に大きく貢献したワーグナーもウィーン分離派に参加していたそうです。建築では、この時代にアールヌーボーに似た装飾的表現が特徴の「ユーゲント・シュティール」という装飾様式が花開いていきました。
 そして、新しい装飾芸術の大きな動きとして、1903年には建築家ヨーゼフ・ホフマンとデザイナーのコロ・モーザーによって「ウィーン工房」が設立されました。これは、イギリスの美術工芸運動「アーツ・アンド・クラフツ」に影響を受けたもので、良質でシンプルなものを手頃な価格で市民に提

「ウィーン工房のハガキ」

「ウィーン工房のハガキ」
 マリア・リカルツ

供しようというコンセプトのもと、建築、工芸、家具、食器、服飾、書籍など生活に密着したあらゆるジャンルに製品が生み出されました。それらの製品は、ウィーンだけでなくベルリンやチューリッヒ、ニューヨークに支店でも販売されていたそうです。
 オスカー・ココシュカの画集のほか、メラ・キラーマリア・リカルツといった女性若手デザイナーによる絵ハガキなどが展示されていましたが、こういった普通の市民でも手軽に手に入れることのできるものに芸術の範囲が広がったことは市民文化の発展につながったことが見て取れます。

本日はここまで!
近日中に追加更新予定です。