「聖職叙任権」をめぐり、ローマ教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世は数年間争いを続けていました。教皇から破門の宣告を受けたハインリヒ4世が、北イタリアのカノッサ城に赴いて許しを願った出来事ことを「カノッサの屈辱」と言います。
あくまで強気の皇帝ハインリヒに、教皇が激怒 !
「聖職叙任権」とは教会の司祭を任命する権利のことです。ハインリヒ4世は北イタリアにおける影響力を増すべく、1075年にミラノの司教を自ら任命すると、フェルモやスポレトの司教などに次々と任命していきました。これに対し、教皇は司教の任命権は王でなく教会にあることを通達し、教皇への服従を要求します。しかし、ハインリヒ4世は聞き入れず、教皇との対立が深まります。
しびれをきらした教皇グレゴリウス7世は、ハインリヒの破門と皇帝権の剥奪をほのめかしました。これに対し、ハインリヒ4世は1076年11月にウォルムスの公会議を開いて、教皇の廃位を宣言しました。これに教皇グレゴリウス7世が激怒。1076年2月にハインリヒ4世の破門と皇帝の座の剥奪を宣言したのです。
この前代未聞の事態に、かねてからハインリヒ4世への敵対意識の強かったザクセン公はじめ、ドイツの諸侯たちはハインリヒ4世に反旗を翻しました。1年後の1077年2月に諸侯たちはアウグスブルクにおいて会議を開いて新しい皇帝を決めることを決定。仲裁者として教皇を会議へ招聘することにし、そしてまた、ハインリヒ4世がそれまでに教皇に謝罪を行なわなければ、その皇位を取り上げることも決議したのでした。
諸侯の反旗に窮地に立たされ、教皇の許しを請いにカノッサへ
ここに至ってハインリヒは窮地に陥り、教皇に使節を送って許しを得ようとしました。しかし、教皇がこれを拒絶したため、皇帝は自ら教皇に謝罪せざる負えなくなったのです。ハインリヒ4世は、なんとしてでも教皇が会議に参加する前に許しを乞うべく北イタリアに向かいました。ハインリヒが教皇を見つけることができたのは、ローマを出てアウグスブルクの会議に向かう教皇がトスカーナ伯マティルデのカノッサ城に滞在していた1077年の1月25日でした。
しかし、突然現れたハインリヒに教皇は戸惑い、捕縛されるのではないかと恐れ、城から出ようとしなかったといいます。真冬の雪の中、ハインリヒは簡素な修道衣をまとい、裸足で城の前に立ち続けて教皇に許しを求めました。ついに3日後、教皇はハインリヒの破門を解き、ローマへ戻って行ったのでした。
この「カノッサの屈辱」は世界史上で有名な事件ですが、ヨーロッパでは現在でも、「強制されて屈服、謝罪すること」の慣用句として用いられているのだとか、、。
懲りずに教皇と対立続けて、ローマを包囲
なんとか窮地を脱したハインリヒでしたが、反対派の諸侯たちはシュヴァーベン公ルドルフを新しい君主に選び対抗します。1080年、これを制圧して王権を取り戻すと、懲りないハインリヒは再び教皇と叙任権をめぐって争うのです。屈辱を味わったハインリヒの心の中には、新たに憎き教皇への対抗心がめらめらと湧き起こっていったのでした。
ハインリヒは1080年に2度目の破門宣告を受けますが、教皇の教会政策に不満のドイツ諸侯がハインリヒ側についたため、今度は以前とは同じ展開にならずにすみました。1084年、ハインリヒ4世は軍勢を率いてイタリアに乗り込み、ローマを囲みました。グレゴリウス7世は辛くもローマを脱出しますが、翌年サレルノで客死。ハインリヒ4世は、新しい教皇にラヴェンナのギルベルトを指名して、クレメンス3世とします。
ここにハインリヒ4世と教皇との闘いは終わりを迎えましたが、「聖職叙任権」に関する教皇と皇帝の争いは、叙任権は教皇にあることを定めた「ウォルムス協約」の成立した1122年まで続きました。イギリスやフランスでは、早くから聖職叙任権は教皇のものとする協約を結び、教皇と和解が成立していました。ドイツでは、司教に世俗的統治権を授与する権利は皇帝に残されたため、ドイツでは司教が領邦君主として力を持ち、次第に独立性を高めていきました。それにより、王の下に中央集権化が急速に進んだイギリスやフランス比べて、ドイツでは国家としての成長はなかなか進まなかったのです。
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