スカラ座の正面にあるスカラ広場のレオナルド・ダ・ヴィンチ像。左写真の右に見えているのはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世ガレリア。 |
|
レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館 | ||
★レオナルド・ダ・ヴィンチの生誕50周年を記念して1953年に設立された国立の博物館で、16世紀の修道院の建物を改装して作られた。館内には科学者としてダ・ヴィンチの偉業の数々が理路整然と展示されており、ダ・ヴィンチの描いた設計図を元に再現した模型などを見ながら、あらためて彼の非凡な才能に驚かされる。当時は実現不可能なものも多いが、彼の天才的な頭脳に当時の科学技術は追いついていなかった、、、!? | ||
|
||
↑カイローニ広場のガリバルディ像。ガリバルディはイタリアの統一に活躍したイタリアの英雄。後方に見えているのはスフォルツェスコ城。 |
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院 | |
元々はドミニコ会の修道院だったが、スフォルツァ家の霊廟にするためにミラノ公ルドヴィーゴ・スフォルツァが建築家のブラマンテに設計を任せて改築。半円アーチの美しい回廊と中庭のほか、聖堂の巨大な円蓋付きの内陣など、ルネサンス風の豪華な装飾が施された。しかし、この修道院が世界的に有名なのは食堂の壁ににレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」が残っているため。テンペラ画で描かれているため、完成直後から痛み始め、何度も後世の修復家によって上塗りされていた。1999年に20年かけた修復作業が完了し、480年ぶりにダ・ヴィンチの真の筆跡が明らかになった。 | |
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ 14世紀後半のミラノ君主。ロンバルディアに勢力拡大を図り、ベローナやピサ、シエナなどを征服。神聖ローマ皇帝ヴェンツェルに賄賂を贈り、1395年にミラノ公の称号を手に入れる。大聖堂の建築を開始するなどミラノは彼の下で大いに発展した。 |
|||
|
|||
フランチェスコ・スフォルツァ ヴィスコンティ家最後の君主フィリッポ・マリーアに仕える傭兵隊長として頭角を現し、彼の娘ビアンカ・マリーアと結婚。フィリッポ・マリーアが跡継ぎを残さず死去すると、1450年にミラノを占領してミラノの新しい支配者となる。54年にはヴェネツィアとの間に「ローディの和」を結び、その支配を確実なものにした。 |
|||
|
ルドヴィーゴ・スフォルツァ (イル・モーロ) フランチェスコ・スフォルツァの子として生まれる。父の後を継いだ兄のガレアッツォ・マリーアが暴政のため暗殺されて、その子ジャン・ガレアツィオがミラノ公となると、ルドビーゴは摂政となって実権を握った。1494年に自らミラノ公となるが、1500年にフランスの侵略によりミラノを追われた。イル・モーロの異名は「ムーア人(ベルベル人)」のように色黒だったことからついたと言われている。 |
||
|
<11世紀頃のミラノ周辺> | ||
※ミラノは、ドイツ語では「マイラント」(Mailand)で、英語・仏語・スペイン語では「ミラン」(Milan)と呼ばれる。時代時代にその統治者によって様々に呼ばれた。 |
しかし、1494年にはシャルル8世によってフランスのイタリア遠征が始まり、1499年にはヴィスコンティ家出身の祖母を持つルイ12世がミラノの継承権を主張してミラノに進軍した。ミラノはあえなく陥落し、君主イル・モーロは幽閉されてフランスで獄死した。しかし、ローマ教皇を中心とした神聖同盟軍によって1513年にフランス軍はミラノから追い払われ、スフォルツァ家が一時ミラノの支配権を復活させる。しかし、その後、神聖ローマ帝国のハプスブルク家がイタリアに勢力を伸ばし、フランスと真っ向から対立。1521年からローマ教皇やイタリア諸国を巻き込んだイタリア戦争が始まり、ミラノはその主な舞台となった。その結果、スペイン王も兼ねたハプスブルク家の皇帝カール5世によってミラノは支配されることとなり、その後1535年から170年間はスペインの統治下にあったが、18世紀初頭のスペイン継承戦争後のラシュタット条約よってミラノはオーストリアのハプスブルク家に帰属することになった。 |