メッヘレンのマルガレーテの宮殿 | ||
カールの叔母 マルガレーテ |
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メッヘレンは、世界的なカリヨンの街として知られている。文芸や芸術の良き理解者だったマルガレーテの時代には、エラスムスやトーマス・モアなどの多くの学者や芸術家がその宮廷に集まったという。 建物は16世紀初頭にルネサンス様式で建造され、1796年に裁判所に転用された。現在は館内の見学はできませんが、ゴシック様式の中庭は見学できる。 |
「陽の沈むことなき」といわれた大帝国を築き上げ、それを統治したハプスブルク家の偉大な皇帝カール5世。彼は「中世最後の皇帝」とも言われ、中世的キリスト教理念にもとづいて、混沌としたヨーロッパ世界に約40年間君臨しました。 世界帝国を支配した偉大な君主といえば、シーザーやアレクサンダー大王などの英雄的な人物を思い浮かべそうですが、カール5世は全くそうではありませんでした。性格は内省的で生真面目、生活は地味。おおよそ豪奢な宮廷生活や権力者的な豪快さとは正反対の人物だったといえます。 彼の50数年の人生は、ハプスブルクが得たものを守っていく苦悩の連続でした。本人が望むか否にかかわりなく、ヨーロッパの統治者としての道を駆け上がっていきました。それは本人の努力というよりも運によるものでしたが、カールは皇帝として様々な戦いや確執の中に巻き込まれていくのです。 カール5世が生きた16世紀前半は、中世から近代への過渡期で、国家も宗教界も新しく生まれ変わろうとする動乱期でもありました。それゆえ、彼の人生を追っていくと、興味深いヨーロッパの変動を様々な角度から知ることができるのです! |
第1話.偉大なる君主たちの血筋を受け継ぎ
華やかな文化の栄えるブルゴーニュで生まれ育つ
15世紀と16世紀の区切りの1500年、商業で栄えるフランドルの街ゲントで1人の皇子が誕生しました。様々な利害関係の絡んだヨーロッパ世界を50年にわたりリードしていく後の皇帝「カール5世」の誕生でした。
カールが華やかな歴史の舞台に登場するのはまだ十数年先のことですが、カールの生まれた環境は、当時のヨーロッパの利害関係が複雑に絡んだものでした。カールには、ドイツを束ねる帝冠を授かるハプスブルク家とヨーロッパ随一富裕なブルゴーニュ公国、そして大国にのし上がりつつあったスペインの血が受け継がれていました。
カールの父方の祖父「皇帝マクシミリアン1世」は「中世最後の騎士」と呼ばれ、神聖ローマ帝国の皇帝としてハプスブルク家のヨーロッパでの確固たる地位を築き上げた人物。そして、カールには15世紀半ばにヨーロッパで最強の武人として名の知れたブルゴーニュ公国の「シャルル突進公(テルメール)」の血も流れています。
ハプスブルク家は由緒ある13世紀から歴史を持つ由緒ある家系でしたが、マクシミリアン1世の父のフリードリヒ3世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれた時には、ドイツに存在するそこそこの諸侯の1人にすぎませんでした。それが、後にハプスブルクの「お家芸」と言われるようになる「結婚政策」の成功により、着実に領土を広げていったのでした。マクシミリアン1世は、シャルル突進公の一人娘マリー・ド・ブルゴーニュと結婚しました。カールの名は、この偉大な母方の祖父「シャルル(カールの仏語読み)」にちなんで名付けられたものです。
当時のブルゴーニュ公国は、商業が栄えてヨーロッパ随一の繁栄を誇り、文化・芸術の水準も高い洗練された富裕な国でした。対するハプスブルクは、神聖ローマ帝国という称号を得ていたものの財政は豊かとは言いがたく、かろうじて体裁を保っている状態でした。したがって、この結婚は今でいう「逆玉」婚に近いものでした。シャルル突進公は、当時、領土をめぐって争いを繰り返していたフランスに対抗するためもあって、愛娘をハプスブルク家の後継者・マクシミリアンと結婚させることにしたのでした。
しかし、結婚前にシャルル突進公が戦死するという突然の不幸もありフランスの邪魔が入るなど、すんなり事は進みませんでした。しかし、2人は無事、ブルゴーニュにて結婚。マクシミリアンは精悍な好青年であり、マリーは美女として誉れ高い魅力的な女性で、2人は一目で恋に落ちました。2人のブルゴーニュでの結婚生活はそれはそれは幸せなものでしたが、その幸せは長くは続かず、マリーは結婚5年目に不運にも落馬により早世してしまいます。夫マクシミリアンの落胆はもちろんですが、ブルゴーニュ中が深い悲しみに包まれました。(関連記事マリー・ド・ブルゴーニュ)
短い結婚生活でしたが、マクシミリアンとマリーの間にはブルゴーニュ公国を継承する嫡男フィリップとマルガレーテという娘の1男1女が誕生していました。マリーの死により、ブルゴーニュは唯一の後継者フィリップに受け継がれ、皇帝マクシミリアンがその後ろ盾となって、実質的にハプルブルク家の支配する地となりました。しかし、これを好機とばかりにフランスが戦いをしかけてきたほか、ブルゴーニュのブルージュやゲントの急進派もマクシミリアンに反旗を翻すなど一時期動乱を迎え、マクシミリアンはピンチを迎えます。しかし、フランスのルイ11世の急逝により反乱をなんとか収め、ひと時の平和が戻ってきます。
カールの父・ブルゴーニュ公フィリップは美男だったらしく「フィリップ美公」と称されていますが、父である皇帝マクシミリアンの結婚政策によりスペイン王女のフアナと結婚しました。従って、カール偉大な女王として歴史上にも名を残すカスティーリアのイサベル女王の血も引いていることになります。カールの母・フアナは美男の夫フィリップを深く愛し、夫婦仲も良く、結婚早々に長女エレオノールを生んだ後、1500年にハプスブルク家の後継者となる長男カールが誕生しました。後の「カール5世」です。そして、フアナはその後もイサベラ、マリアと次々と夫の子供を出産していきます。
そして、1508年にフアナの母・カスティーリア女王イサベル1世が他界すると、唯一の後継者となったフアナは女王として夫とともにカスティーリアに赴きました。しかし、フアナはあまりに夫を愛するあまり、夫の度々の浮気に精神が不安定になり、この頃から周囲には精神異常と見られるようになっていきました。政治よりも夫のことで頭が一杯で、奇行も目立ちました。実際にカスティーリアの統治権を持つのはフアナであるにもかかわらず、政治的にはないがしろにされ、夫フィリップ(スペインではフェリペ)が君主のように振舞っていました。夫婦の愛憎は激しく、決して円満とはいえませんでしたが、2人は不仲というわけではなく、フアナはスペインでフェルディナンド、カタリーナを出産しています。そんな中、大きな悲劇が訪れます。フィリップ美公が28歳の若さでスペインのブルゴスで客死したのです。カールがまだ6歳の時のことでした。
このように、カールたち兄弟姉妹は幼い頃より両親との縁の薄い環境の中で育ちましたが、スペインで生まれ育ったフェルディナンドとカタリーナ以外の4人は叔母にあたるマルガレーテに引き取られ、ブラバントの小さな町メッヘレンで温かい愛情に包まれて育ちました。幼い頃に母をなくし様々な苦労して育ったマルガレーテは、最後に嫁いだスペインで夫を早々に亡くし、生まれ故郷のブルゴーニュに戻っていました。兄のフィリップの死によって、皇帝マクシミリアン1世よりブルゴーニュの総督に任命されていましたが、フランス語やラテン語に堪能で古典の教養も深い才媛だったと言われます。そんな叔母マルガレーテの庇護の下で、カールたち兄妹は優秀な家庭教師に囲まれて有意義な少年少女時代を過しごたのです。
最後のブルゴーニュ公となったシャルル突進公。「勇胆公」「無鉄砲公」「猪突公」などとも訳される。(ルーベンス作) | カールの父方の祖父である神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世。「中世最後の騎士」と呼ばれる。(デューラー作) | ||
父シャルル突進公とともにブルージュの聖母教会に眠る「ブルゴーニュのマリー」ことマリー・ド・ブルゴーニュ。の像。ブルージュの聖血礼拝堂の正面には彼女の銅像が飾られている。 | |||
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マクシミリアン1世とその家族。 早世した愛妻マリーが子供や孫と一緒に描 かれている。手前中央がカール。 |
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カールの両親:フアナとフィリップ美公 フィリップは、女好きだったが、野心家でもあった。妻とともにカスティーリアに向かった後は、妻を差し置いて政治の実権を握ろうと画策した。そんな夫をフアナは深く愛し、常に身ごもっていた。 |