カール5世A
カール5世
どらまちっく・ひすとりー
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王室礼拝堂
グラナダの王室礼拝堂

「カトリック両王」と呼ばれたイサベルとフェルナンド両王の墓所。ここには、後に娘であるフアナとフェリペ夫妻も葬られ、4人仲良く棺が並んでいる
第2話 スペイン後継者はカールか? フェルディナンドか?

 1515年1月、カールはブリュッセルにて儀式を執り行い、正式にブルゴーニュ公国の君主となったことを公に宣言し、ブリュッセルに宮廷を置きました。そして、そのころ長年の宿敵フランスでも新しい君主が誕生していました。ルイ12世の急逝によりフランソワ1世が即位したのです。フランソワ1世は、今後、カールの最大のライバルとなる人物であり、ここに因縁の対決が始まりました。
 また、ハプスブルク家にとって大きな出来事は、アラゴンのフェルナンド2世の死去でした。ここで、カールの時代に至るまでのスペイン情勢を少し振り返ってみます。

 アラゴンはイベリア半島の東南部地方をいい、中央部のカスティリアと合わせてスペイン王国を形成していました。この連合王国はアラゴンのフェルディナンド王とカスティリアのイサベル女王の結婚によって1479年に成り立ったものですが、ここに現在に至るスペインの領土が確立され、統一国家が生まれていました。
 その後のスペインは国家として順調に発展中でした。1492年、国土回復運(レコンキスタ)を成功させて、イスラム教徒をイベリア半島から駆逐。そして、同年に支援していたコロンブスが新大陸発見するなど、その領土はヨーロッパだけでなく、新大陸やフィリピンなど世界に拡大しつつありました。また、地中海のシチリア島・サルディーニャ島、そしてイタリア南部のナポリにも領土を所有しており、貿易の拠点として重要な役割を果たしていました。そこに、イタリア方面への進出を図るフランスの脅威が迫ってきていました。1494年にはフランス王シャルル8世がナポリの王位を要求してイタリアを南下し、一時ナポリを占領されるという事態に陥りました。そんなフランスに対抗するためにも、ハプスブルク家の皇帝マクシミリアン1世と同盟を結び、お互いの子をと二重結婚させてました。嫡男フアンとマルガレーテ、ハプスブルクのフィリップ美公とフアナの2組のカップルです。しかし、その二重結婚が、結局、その後ハプスブルク家に世界にまたがる広大な領土をもたらすことになるのです。
 
 1504年にカスティリア女王のイサベルが死去。フェルナンド王とイサベルの間には3人の子供がいましたが、王位継承者のフアン王子19歳で病死、ポルトガルに嫁いだ長女イサベルは産褥死、生まれた王子も2歳で夭折。継承者として残ったのは、ハプルブルクに嫁いだフアナとその子供のみになったのでした。フアナはスペインの地に戻ってカスティリアの女王となり、夫のフェリペ(フィリップ美公)と共同統治を行なっていました。しかし、フェリペが1506年にブルゴスにて急逝するとフアナの精神はさらに異常をきたし、「狂女王 La Loca」と呼ばれていました。

 フェルナンド王の憂慮がいよいよ現実のものとなり、広大なスペインの領土がすべてハプルブルクの手に渡るのを避けられないと悟った時、フェルナンド王は、せめてはスペインで生まれ育ち、自分と同じ名前のフェルディナンド(スペイン語でフェルナンド)に自分の領土アラゴンを継承させたいと考えます。カールはハプルブルクの嫡男とはいえ所詮よそ者、幼い頃から手元で可愛がってきた孫フェルディナンドに財産を残したいと思うのは当然のことです。陽気で快活なフェルディナンドは、地元でも人気のある王子でした。
  そして、その動きを察知したブルゴーニュの宮廷では、それを阻止しようとフェルナンド王と調停に動きます。調停役となったのは、ルーヴァンの主席司祭のアドリアン・フォン・ユトレヒト。カールの少年の頃からの指南役で、ブルゴーニュの宮廷でも一目置かれる存在でした。後にローマ教皇ハドリアヌス7世となる人物です。そんな情勢の中、1516年にフェルナンド2世が崩御。ついに、広大なスペイン領土は、若きブルゴーニュ公カールが引き継ぐことになったのです。

王家の系図入り口
カスティリアの都があったブルゴスのサンタ・マリア門(↑)と市街地の様子(↓)
1474年のイベリア半島
1474年当時のイベリア半島の勢力地図
イザベル女王 フェルナンド2世
「カトリック両王」と呼ばれるカスティリアのイサベル女王とアラゴンのフェルナンド2世。