フランス王
フランソワ1世

 (Francois Ier de France)

1494年9月 - 1547年3月
(在位1515年 - 1547年)

ヴァロア朝第9代のフランス国王。
父アングレーム伯シャルルの従兄にあたるルイ12世が世嗣がいないまま死去したたため、1515年にフランソワが後継者として即位した。王権を拡大し、フランス絶対主義の基礎を築いた王として名を残し、フランス最初のルネサンス君主とされている。

 アングレーム伯シャルルとルイーズ・ド・サヴォワとの間にパリ南西のコニャックの城で生まれた。ルイ12世とブルターニュの女公爵である王妃アンヌ・ド・ブルターニュとの間に生まれたクロードと王太子時代に結婚し、1515年にルイ12世の死去によりフランス王位を継承した。即位後、2代前の国王シャルル8世が始めたを継続して貪欲にイタリア進出を図り、1515年ミラノ公国を占領してスフォルツァ家を追放した。
  1519年に神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世が死去すると、フランソワも後継者候補として皇帝選挙に立候補したが、スペイン王カルロス1世(皇帝マクシミリアン1世の孫)に敗北。カルロス1世が皇帝カール5世として即位することになり、フランスはハプスブルク家によってドイツ・スペインと周囲を囲まれてしまう。これ以後、フランソワ1世は強力なハプスブルクの勢力に対抗するために、宗教を問わず様々な相手と手を結ぶことになる。
 1521年〜44年のイタリア戦争では、カール5世の皇帝軍とイタリアの覇権を巡って激しく争った。1525年のパヴィーアの戦いでは自ら前線で指揮を取るものの、皇帝軍の捕虜となりマドリッドに1年近く幽閉された。しかし、「マドリッド条約」を結び釈放されるや、2人の王子が人質になっているにもかかわらず条約は無効と宣言し、ブルゴーニュの返還などを拒否した。そして、母后ルイーズ・ドサヴォアの根回しなどが功を奏し、教皇クレメンス7世の支持の下、反ハプスブルクの同盟を結成させて巻き返しに成功するが、これが「サッコ・ディ・ローマ」(1527年)と呼ばれるローマの略奪につながり、歴史上に大きな傷跡を残すこととなった。その翌年には、イギリスのヘンリー8世と同盟を結んでイタリアの覇権奪回を目指し、スペイン領のナポリを攻略したが、ジェノバの提督アンドレア・ドーレアと仲違いしたのが原因でイタリア進出は再び失敗し、「カンブレの和」を結んで皇帝カール5世と和睦した。
 その後も、フランソワ1世はハプスブルク家に対抗して、ドイツのプロテスタント諸侯(ルター派)を支援したり、異教徒であるオスマン・トルコのスレイマン1世 と密約を交わし、第1次ウィーン包囲を支援した。フランソワ1世自身はカトリックの信仰であったが、ハプスブルク家との対立関係などから国内のプロテスタントには比較的寛容な政策が取られていた。しかし、檄文事件などが起こり、プロテスタントの活動が活発になるとこれを弾圧した。
 

 そのカリスマ性と精力的な対外政策により王権の強化に成功して王国としての支配の基盤を築き、フランソワ1世の時代にフランスは着々とヨーロッパの中心的な存在となっていった。そして、1532年にはブルターニュ公国をフランスに併合し、それ以後フランス王太子は代々ブルターニュ公を名乗ることになった。また、ジャック・カルティエをカナダ植民に送り出し、フランス領カナダ(ケベック州)の基礎を築いている。

 度重なるイタリア遠征によってイタリアの洗練された文化と芸術に強い憧れを持ち、フランスにルネサンス文化を花開かせた王としても有名。ミラノを征服した際に、それまでスフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチを招いたことがフランスにルネサンス文化が伝わるきっかけになった。その後も、ロッソ・フィオレンティーノらの芸術家をイタリアから読んで保護し、フォンテーヌブロー宮殿などルネサンス様式の宮殿を建てた。1530年には後に「コレージュ・ド・フランス」となる「コレージュ・ド・ロワイヤル」を設立し、ヘブライ語・古代ギリシア語・数学の研究を促進させた。

 病気のため体調を崩していたフランソワ1世は、1547年3月に57歳で死去した。若い頃に感染していた梅毒が原因とも言われている。嫡男のフランソワが早世していたため、次男がアンリ2世として王位を継いだ。

馬上のフランソワ1世
ダ・ヴィンチの死
↑フランソワ1世の腕の中で眠りにつくレオナルド・ダ・ヴィンチの画。実際にはそういうシーンはなかったが、この絵画で2人の親密ぶりがわかる。