約1年の捕らわれの身から解放されたフランス国王フランソワ1世は、自由の身になるや否や、それまでの態度を一変させ、皇帝カールと交わした条約など守る気はさらさらありませんでした。皇帝のカールはフランソワの滞在するコニャック城に使者ラヌアを派遣しましたが、「あんな条約は、無理やり強制されたものだから、従う気はない」と言い放ち、ブルゴーニュの明け渡しに応じようとしませんでした。カールがこのフランソワの態度に耳を疑い、ショックを受けたのは言うまでもありませんでした。
ハプスブルク家は、カールの祖父の皇帝マクシミリアンの時代から歴代のフランス王の姑息な二枚舌に翻弄されてきた歴史があり、カールの側近ガッティナラが「フランス王がそんな約束を忠実に守るはずがない」と忠告したにもかかわらず、カールがフランソワの言葉を信じて王を釈放した結果でした。
カールの姉エレオノーラがフランソワの王妃となって今は2人は義兄弟の間柄であり、しかも、王は自分の後継者となる2人の王子、フランソワとアンリを人質としてスペインに差し出しているのです。フランソワの態度は、善良な精神の持ち主である皇帝には、にわかに信じられないものでした。カール自身も何度もフランス王に念を押したにもかかわらず、相手の方が一枚上手だったのです。
そして、形勢は一気に逆転しました。「マドリッド条約」の内容を知った諸国は、皇帝の勢力があまりに大きくなるのを恐れて、フランスに味方し反ハプスブルクの同盟を結ました。「コニャック同盟」と呼ばれるこの同盟は、王母ルイーズ・ド・サヴォアの根回しが思い通りに実を結んだ結果でした。極秘裏に結ばれたこの同盟を知ると、皇帝カールは愕然としました。せっかく築き上げたと思ったイタリアでの覇権は実は幻であり、今は諸国が一斉にカールに刃を向けているのです。 しかも、その中心にいたのが時の教皇クレメンス7世であったというのも、カトリックの擁護者を自認する皇帝カールにとってはショッキングなことでした。教皇は唯一カール5世と結んだフェラーラ公アルフォンソ1世を破門し、領土を取り上げてローマに幽閉してしまいます。
わずかの時間で、カール5世とフランソワ1世の立場はすっかり逆転。普段は冷静なカールもさすがに怒りを隠せず、フランスからの王子の返還要求に対し、「いかなる条件においてもその要求には応えられない」と返答し、2人の王子の監視をさらに厳しくさせたのです。そして、両国を含む関連諸国は再び戦闘状態に突入していったのでした。
しかし、いかに不屈の精神を持つフランソワ王といえ、捕らわれの身から解放されたばかり。しかも、2人の王子が皇帝の人質となっているとあって、いつものように我勇んで戦いに臨むというかんじではありませんでした。教皇を中心とした同盟諸国―ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノなどはそれぞれ兵を出しましたが、肝心のフランス王はあてにできず、戦いは皇帝軍に押しまくられていたのでした。自らが提唱した同盟が劣勢とあって、教皇としての面目は丸つぶれ、、。優柔不断なクレメンス7世は、これ以上戦いを続けるのは不利益と悟り、今度は皇帝との和議を考え始めました。しかし、時すでに遅し、、。皇帝軍はすでに制御不能、手のつけられない状態に陥っていたのです。
皇帝軍の中心は、ドイツほかイタリア、スペインなどから集めた傭兵でしたが、あいつぐ戦いで皇帝の資金は底をついており、兵士への俸給が滞るほどでした。衣服もボロボロで寒さが身にしみ、食料不足で常に空腹―。そんな彼らは日に日に不満を募らせ、爆発寸前でした。今にも反乱が起きそうな不穏な空気の中、軍を統率するのは容易ではなく、皇帝軍を指揮していたブルボン元帥自身の命も危うい状況であり、彼らの目をローマと向けさせるのが精一杯でした。
皇帝軍の傭兵となっていたのは、貧しい農家の次男か三男が多く、ルターの宗教改革に感化され、昔からのローマ教会のあくどさや聖職者たちの専横ぶりに憎悪を抱いていたものばかりでした。怒りに燃えた彼らにはもはや理性や軍律といったものはなく、「ローマへ!
ローマへ!」を合言葉にし、永遠の都ローマへと突き進んでいったのでした。「黄金の輝く都にさえ行けば、好きなだけ戦利品が手に入る!」。 その思いだけで、彼らは食料も満足にない中、小さな街をいくつか略奪しながら、なんとか冬の過酷な行軍を遂行したのでした。
一方、ローマのクレメンス7世は、皇帝軍の進軍を聞いてもあくまで楽観視していました。2月にミラノを占領されても、ローマに至るまでには険しいアペニン山脈があり、到底、ローマまで攻めてくるはずがないと鷹揚に構えていたのです。 しかし、皇帝軍の傭兵たちは行軍が厳しくなればなるほど「ローマ憎し」の思いが高まり、いまや暴徒と化していました。
皇帝軍があと数日でローマに達するという時になって、クレメンス7世は恐れおののいて皇帝使節ラヌワを介して15万グルデンの提供を申し出ました。示談交渉です。しかし、血気あふれた皇帝軍にはそんな程度では収まらず、さらに24万グルデンに引き上げてみたものの交渉は決裂。1527年5月6日、ついにローマでの皇帝軍と教皇軍の衝突が始まりました。
皇帝軍は閉ざされた城門を打ち破り、城壁をよじ登ってローマの街への侵入を図りましたが、その際、城壁を登ろうとしたブルボン元帥が火縄銃を浴びて倒れました。元はフランスの名門の出であったシャルル・ド・ブルボンは、皇帝軍の将軍として37歳の生涯を終えたのでした。大将の死を機に、暴徒と化した傭兵たちはローマの街になだれこみ、理性を忘れて好き放題暴れました。宮殿や貴族の豪邸に侵入して金銀を奪い、さらに一般の家庭や商店などにも押し入って、食物を奪い、女を陵辱し、老人や子供を見境なく殺しました。美しいカトリックの寺院や教会もドイツの新教徒たちによって物色され、破壊されました。彼らは奪えるものがなくなると味方同士で戦利品を奪い合うようにさえなり、美しく芸術にあふれた都だったローマは廃墟と化していきました。この皇帝軍の略奪が世界史上名高い「サッコ・ディ・ローマ」(ローマの略奪)です。
ローマでの戦闘が始まるや否や取り巻きの枢機卿などと共にバチカンからサンタンジェロ城に逃げ込んでいた教皇クレメンス7世は、自らの都ローマが敵の手によって破壊され、見るも無残な姿になっていくのを成すすべもなく見ているしかありませんでした。同盟軍の救援を待ち望みましたが、ローマの惨状を見て、もはや救いを差し伸べる者なく、教皇は「コニャック同盟」など結ばなければよかった、、、もっと早くから皇帝軍に金銭を与えればよかった、、、などとあれこれ後悔しますが、すでにどうしようもありません。6月6日、ついに皇帝軍に40万ドゥカートという破格の金銭を支払うことを了承して降伏。教皇と数人の枢機卿は捕囚の身となり、皇帝軍の占領は続きました。多額の保釈金をさらに支払ってようやくクレメンス7世は自由の身を手に入れることができたのは、さらに半年後のことでした。
この皇帝軍の略奪により、ローマで活躍していた多くの芸術家たちはローマから去るか殺されてしまいました。壊滅的な打撃を受けた永遠の都ローマは、ルネサンス芸術の中心地としての役割をここで終えることになったのでした。
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