ネプチューンに扮したアンドレア・ドーリア
15世紀に活躍した画家ブロンズィーノの描いた「ネプチューンに扮したアンドリア・ドーリア」
(ミラノ・ブレラ美術館
18世紀までのイタリア北部
アンドレア・ドーリアは君主とはならなかったが、ジェノバを実質的に統治した。ジェノバ共和国は、ナポレオンがイタリアに侵略する1797年まで安定した国家として存続した。
マルガレーテ ルイーズ 
「貴婦人の和」を立役者
マルガレーテ(左)とルイーズ
王妃キャサリン ヘンリー8世
英王ヘンリ8世と
 最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴン


 スペイン王女として生まれたキャサリン(カテリーナ)は、1501年ヘンリーの兄アーサーと結婚したが、数ヶ月で死別。その後1509年に王位を継いだ6歳年下のヘンリー8世と再婚した。しかし、流産や死産が続き、無事育ったのは1516年に誕生した後のメアリー1世のみだった。
 男子の後継者を欲したヘンリー8世は、王妃と離婚して新しい王妃を迎えることを願っていた。しかし、教皇からの許しが得れなかったため、カトリックから離れ「イギリス国教会」を設立してその首長となった。ヘンリー8世はキャサリンを含め6人の王妃を次々取り替え、「ヘンリー8世と6人の悲劇の王妃」の話は非常に有名。


これまでの主な出来事
1521 イタリア戦争開始
1522 (12月) ロードス島陥落
1525 (2月) パヴィーアの戦い
1526 (1月) マドリッド条約
1526  (8月) モハーチの戦い
1527 (5月) サッコ・ディ・ローマ
卵城
↑ナポリ湾のサンタ・ルチア岬先端に立つ卵城
←「ナポリを見てから死ね」という言葉があるほど美しいナポリ港。遠方に見えるのはヴェスヴィオ火山。
カステル・ヌオーヴォ
↑13世紀にアンジュー家のシャルル1世の建てたカステル・ヌオーヴォは、後のアラゴン王家の居城にもなった。1503年以降はスペイン領となり、副王が治めた。
どらまちっく・ひすとりー

カール5世 I
第10話 反皇帝軍の包囲によりナポリ陥落の危機
      ジェノバ提督アンドレア・ドーリアに窮地を救われる

 しかし、聖都ローマを廃墟にし、キリスト教世界で最も権威のある教皇を人質にしたことは、単純に勝利を祝えるようなことではなく、皇帝カールも慌てて教皇に宛ててお悔やみと言い訳の親書を送りました。しかし、皇帝カールは再びヨーロッパ諸国から非難を浴びることになり、ヨーロッパの政局は再び激しく変化しました。

 まず、フランスがイギリスと急接近。イギリスのヘンリー8世は当時王妃との離婚問題を抱えていました。世継ぎの欲しいヘンリー8世は子供を得る見込みのない年上の王妃と離婚して、若くて美しい女官アン・ブーリンとの再婚を望んでいました。ヘンリーの王妃キャサリンは、カール5世の母フアナの妹キャサリン・オブ・アラゴン(カテリーナ)であり、カールの叔母に当たりました。カトリックでは公式には離婚は認められないのですが、それを実現させるには教皇からの特別な許可が必要でした。しかし、カトリックの秩序を重んじる皇帝カールにとってはそれは絶対に許せないことでした。すっかり皇帝が煙たくなったヘンリー8世は、皇帝と敵対するフランソワ1世と利害が一致し、両国は新たな同盟を結んだのでした。

 こうして英仏の同盟が成立するや、捕虜となっていた教皇クレメンス7世を窮地を救うという名目ものもと、ロートレック元帥を指揮官としたフランス軍はアルプスを越えてイタリアへと進軍しました。イギリスの資金援助も受け、勢いに乗ったフランス軍は、かつてフランソワが捕らわれの身となったパヴィーアなどを奪取し、首尾よくロンバルディアのほぼ全域の占領に成功。そして、ジェノバ海軍の提督アンドレア・ドーリアと呼応して地中海の要所ジェノバを押さえたのでした。
 こうした情勢の中、皇帝カールとの協議がなんとか成立して、教皇クレメンス7世が数ヶ月に及んだ囚われの身から釈放されました。しかし、皇帝カール5世とフランソワ1世の対立は依然としてして解消せず。それどころが、血気にはやるフランソワはこの機を逃さず、野望をむき出しにします。勢いに乗ってフランス軍はイタリア半島を南下し、スペイン領のナポリ王国の近くまで迫り、その一帯を占領しました。
 実り豊かな穀物の宝庫であるナポリは、ハプスブルクにとってなんとしても死守したい大事な領土でしたが、ナポリの獲得はフランスにとってはシャルル8世以来の野望でした。皇帝軍はペストなどで半数ほどに減っており、圧倒的に優位なのは数倍の大軍でナポリを囲んだフランス・ジェノバ・ヴェネツィアの同盟軍でした。そして、補給路を断たれた皇帝軍は極度の食糧不足に陥っており、ナポリは今にもフランスの手に落ちようしていました。
 

ナポリ港とヴェスヴィオ火山
 

  しかし、念願のナポリ陥落を目前にして、またもやフランソワは不覚を取りました。あろうことか、以前から金銭面のトラブルなどで険悪になっていたジェノバの提督アンドレア・ドーリアと仲違いしたのです。ドーリアは、フランソワがジェノバの艦隊を襲撃させる指令を出していたことを知ると激怒。皇帝カールはこの機会を逃さず、故国ジェノバの独立を認めてドーリアを味方につけたのでした。

 ドーリアはナポリの包囲を解き、ジェノバを支配していたフランス軍に対し反乱を起こし、これを駆逐。フランス軍はイタリア南部への補給基地としていたジェノバを失い、一気にピンチに立たされました。アンドレア・ドーリアといえば、トルコの海賊さえも恐れるという地中海の実力者。フランソワ1世は、先のブルボン元帥に続いて味方の有力な指揮官を敵軍に追いやったことにより、またもや苦杯をなめることになったのでした。そして、皇帝カールにとっては、敵だったら恐ろしいそんな人物を運よく味方につけることができたのは何よりの幸運でした。それ以後、皇帝はドーリアに厚い信頼を寄せ、その絶大な軍事能力を最大限に生かしていくことになります。


 こうして再びイタリアの覇権がフランスから皇帝カールのものへと戻ると、イギリスのヘンリー8世も同盟から手を引き、クレメンス7世も皇帝と和を結び、一気に戦局は沈静化してしまいました。しかし、何度も反目し合っている皇帝カール5世とフランソワ1世は、意地やプライドがあってなかなか自分から和議を言い出せず―。 そんな状況下で登場したのがフランソワの母后ルイーズ・ド・サヴォアとカールの叔母マルガレーテでした。今はネーデルランド総督を務めているマルガレーテは、30年ほど前に仏王シャルル8世の婚約者としてフランスで養育されていたことがあり、その当時から2人は旧知の仲でした。
 政治的にも何度も表舞台に立ってきた貴婦人2人は、さっそく仲裁の使者を介して協議を重ね、和議の下書きについて同意。この和議の条件に皇帝カールも同意したため、1529年8月にルイーズとマルガレーテがフランスとネーデルランドの境にある街カンブレで会い、「カンブレの和」が締結されました。通称「貴婦人の和」と呼ばれるこの和議の条件は、@フランスはイタリアを放棄 Aハプスブルクはブルゴーニュ(フランシュ・コンテ)をフランスに譲る B幽閉されたままのフランソワの2人の王子は、200万エキュの身代金で釈放 などで、3年前に結ばれた「マドリッド条約」とほぼ同じ内容でした。
 客観的に見てハプスブルク側に有利な条件といえましたが、皇帝はあんなに固執していたブルゴーニュを放棄しなくてはなりませんでした。それでも、カールは長く続いた争いに疲れ、フランスとの対立を終わらせることに不満はありませんでした。そして、「マドリッド条約」で決められたものの、実行されていなかったフランソワ1世とカールの姉エレオノーラとの結婚も、両家の和睦の証として実現されることになりました。

 こうして休むことなく争い続けた両国は、束の間の平和を得たのですが、さて、、、。