どらまちっく・ひすとりー 旅とともに...

           フランス王家の歴史

カペー朝からヴァロア朝へ 再び動乱へ
  ヴァロア朝前期のフランスを疲弊させたイングランドとの百年戦争を最終的に勝利で終結させると、フランスは中央集権国家として国力を蓄えました。そして次に、歴代国王が領土的野心を向けたのは、ヨーロッパの文化や宗教の中心であるイタリアでした。1494年にシャルル8世によって開始された「イタリア戦争」は続くルイ12世、フランソワ1世によって継続され、神聖ローマ帝国のハプルブルク家との長い戦いが続きます。そして、国内は「ユグノー戦争」と呼ばれるカトリックとプロテスタントの宗教対立が深刻化し、長く熾烈な血なまぐさい抗争が繰り広げられる時代へと突入していきます。

シャルル8世 ルイ12世 フランソワ1世 アンリ2世 フランソワ2世 シャルル9世 アンリ3世 アンリ4世→


国王 主な出来事 王妃など


ルイ12世

ルイ12世

ヴァロア朝8代 在位:1498-1515

  シャルル5世の孫であったオルレアン公シャルルの息子としてブロワ城で生まれた。シャルル8世対する反乱に加担し、1787年より3年投獄されたこともあるが、王の信任を回復してイタリア遠征に参加。1498年、シャルル8世が男系後継者なく急死すると、フランス王として即位した。
 ルイはすでにルイ11世の娘ジャンヌと王命により結婚していたが、ローマ教皇アレクサンドル6世働きかけてこの結婚を無効にし、ブルターニュに対する野心からシャルル8世の王妃であったアンヌと再婚した。
 そして、シャルル8世が失敗したイタリア戦争も再開。1500年にはミラノを征服、さらにナポリにまで進出したが、ナポリ王位を世襲してきたスペインのアラゴン家によって南イタリアから追放される。さらに、ローマ教皇の呼びかけで結成された「神聖同盟」によりミラノも奪回され、イタリア遠征は失敗に終わる。しかし、学芸や商工業を奨励し、善政を行なったとされ、「人民の父」と呼ばれる。
 ルイ12世にとって最後の憂いは、自らに嗣子のいないことだった。1514年王妃アンヌが死去すると、イングンドのヘンリー7世の娘メアリーと再婚したが、男子を得ることなく3ヶ月後に無念の病死。娘クロードと結婚したフランソワが後継者として即位した。

王妃アンヌ
   ド・ブルターニュ

  アンヌ・ド・ブルターニュ   
シャルル8世の王妃であったが、死別後、ルイ12世と再婚した。両王ともブルターニュの支配をもくろんでの結婚だった


「人民の王」 (Pere du Peuple)
生1462-没1515


《父》  シャルル (オルレアン公)
     ※シャルル5世の孫
《王妃》①ジャンヌ(ルイ11世の娘)
      ②アンヌ・ド・ブルターニュ
      ③メアリー
(英ヘンリー7世の娘)

《子》  ・クロード (フランソワ1世王妃)
     ・ルネ (フェラーラ公妃)


王妃クロード
    ・ド・フランス

    王妃クロード
   ルイ12世の王女

寵姫エタンプ公妃
  (アンヌ・ド・ピスルー)



王妃エレオノーレ
   ・ド・オーストリア

   王妃エレオノーレ
フランソワ1世の仇敵である神聖ローマ帝国カール5世の姉。ポルトガルのマヌエル1世の3番目の王妃となり1男1女を出産したが、1521年に夫マヌエル1世と死別。パヴィーアの戦いの後、カール5世の意向で王妃と死別していたフランソワ1世と再婚した。

フランソワ1世


フランソワ1世

第9代  在位:1515-1547

 アングレーム伯シャルルとサヴォイア公女ルイーズ・ド・サヴォア間に生まれる。ルイ12世に嗣子がいなかったため、その王女クロードと結婚し、21歳でフランス王位を継ぐ。
 神聖ローマ帝国の皇帝選挙で帝位をめぐってハプスブルク家のカール5世と争ったが敗北。その後、皇帝カ-ル5世とはイタリア戦争で20年以上に渡り因縁の対決を繰り返す。パヴィーアの戦いでは王自ら皇帝軍の捕虜になるなど、苦境にも立たされたが、時には条約を反故にしたり、異教徒のオスマン・トルコとも手を結ぶなど手段を選ばぬ外交政策で激動の時代を巧みに乗り切り、フランスの絶対王政の基礎を築いた。
 また、長年のイタリア遠征よるルネサンス芸術への憧れから、イタリアよりレオナルド・ダ・ヴィンチほか芸術家を招いて保護し、フランスにルネサンス芸術を根付かせた。


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生1494-没1547


《父》 シャルル (アングレーム伯)
《母》 ルイーズ・ド・サヴォア
《王妃》 ①クロード (ルイ12世の娘)
   
  ②エレオノーレ(神聖ローマ皇帝
                    カール5世の姉)

《子》・フランソワ (王太子)
   ・アンリ2世
   ・マドレーヌ
( ジェームズ5世妃)
  
シャルル (オルレアン公)
   ・マルグリート(サヴォイア公妃)

 



アンリ2世


アンリ2世

第10代  在位:1547-1559

 フランソワ1世と王妃クロードの次男として生まれた。少年時代、パヴィーアの戦い(1523年)で皇帝軍の捕虜になった父フランソワ1世の代わりに、兄フランソワとともにスペインに人質に出され、4年間スペインで幽閉生活を送った。その後、33年にイタリアのメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスと結婚。王太子であった兄フランソワが急逝したため、王太子となり、1947年、父の死により王位につく。
 父の対外積極政策を継承して、ハプスブルクの家のカール5世やフェリペ2世と争ったが、1559年のカトー・カンブレジ条約でフランスはイタリアへの権利を放棄し、イタリア戦争は完全に終結することになった。
 アンリ2世は1559年に娘エリザベートとスペインのフェリペ2世の結婚祝賀の馬上槍試合で右目を貫かれた突発事故が元で、40歳で急逝した。アンリ2世と王妃カトリーヌとの間には10人もの子供を儲けたが、宮廷の中心はアンリが王太子時代から寵愛した約20歳年上のディアーヌ・ド・ポワティエで、国王アンリ2世に対しても強い発言力を持っていた。

寵姫ディアーヌ
     ・ド・ポワティエ

  ディアーヌ・ド・ポワティエ
 アンリ2世が10代の頃から寵愛を独占し、アンリが国王となった後も宮廷で王妃カトリーヌ・ド・メディシス以上の影響力を持った。しかし、アンリ2世が急逝すると、王妃カトリーヌにより宮廷から追放された。
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王妃カトリーヌ
     ・ド・メディシス

 カトリーヌ・ド・メディシス
ウルビーノ公爵ロレンツォ・デ・メディチの娘として1919年にフィレンツェで生まれる。ローマ教皇クレメンス7世の仲介で、フランソワ1世の次男アンリと1533年に結婚。カトリーヌによって食文化をはじめイタリアの洗練された文化がフランスへと伝えられた。
 アンリ2世在位中は寵姫ディアーヌの存在に苦しめられたが、10人の子供を出産。夫の死後、次々に王位に付いた3人の息子の摂政として、約30年間実権を握った。


王妃メアリー
     ・ステュアート

  

1542年にスコットランドのジェームズ5世を父として生まれたが、父王の急死でわずか生後6日で女王となった。少女期にフランスの王太子フランソワと婚約してフランスに渡り、16歳の時に結婚。その後、夫の即位でフランス王妃となるが、フランソワの早世によりスコットランドへ戻る。その後、イングランドの王位継承権を主張してエリザベス1世と対立したり、2度の不幸な結婚など波乱の人生を送った。



王妃エリザベート
   ・ド・ドートリッシュ

  王妃エリザベート

ハプスブルク家のマクシミリアン2世の第5子として1554年にウィーンで生まれ、16歳でフランス王シャルル9世と結婚。夫は病弱であったが、サン・バルテルミーの虐殺の起こった年に一人娘マリー・エリザベートを授かった。しかし、その2年後に夫と死別し、未亡人となる。


生1519-没1559

父》 フランソワ1世
《母》 クロード・ド・フランス

《王妃》
カトリーヌ・ドメディシス
《子》 ・フランソワ2世
    ・エリザベス (フェリペ2世妃)
    ・シャルル9世
    ・アンリ3世 (アンジュー公)
    ・マルグリット (アンリ4世妃)
    ・フランソワ(アランソン公)
    ほか



フランソワ2世




第11代 在位:1559-1560

  長い間子供に恵まれなかったカトリーヌが授かった初めの男子で、父の即位とともに王太子となる。1556年、12歳の時にスコットランド女王メアリー・スチュアートと結婚。その3年後の59年、父アンリ2世が不慮の事故で逝去するとフランソワ2世として即位した。
 フランス国内では、カルヴァンの影響を受けたプロテスタント(改革派)とカトリック(旧教派)の対立が激しくなり、「ユグノー戦争」と言われた長い抗争が続いた。息子に代わって実権を握っていた王母メアリーは両派を敵に回すことなく、そのバランスの均衡を保つようあらゆる策略を練った。
 王妃メアリーの外戚である旧教派のギーズ一族の力が強まり、プロテスタント(改革派)を弾圧したものの、新教徒は貴族や裕福な者が多く、迫害が強まるほど信者の数は増えていき、事態はさらに一触即発状態になっていった。1560年、プロテスタント側は旧教派の中心人物ギーズ公フランソワを暗殺しようとしたが、計画は事前に発覚して残酷な処刑が行われた。「アンボワーズの陰謀」と呼ばれるこの事件は、王母カトリーヌがギーズ公の勢力を削ぐためプロテスタントを利用しようと画策したものといわれる。
 そんな中、フランソワ2世は先天性の持病を持っていたが、1560年狩猟に出かけた際に耳の後ろに鋭い痛みを訴えて倒れた。中耳炎と診断されたが、母カトリーヌが開頭手術を拒んだため、脳まで膿が達し脳炎のため16歳で短い一生を終えた。在位は1年あまりと短かった。


生1544-没1560

《父》 アンリ2世
《母》 カトリーヌ・ド・メディシス

《王妃》 メアリー・スチュアート
      (スコットランド女王)  


王妃カトリーヌと子供たち
王妃カトリーヌと子供たち。
3人の息子と王女マルグリット


シャルル9世





第12代 在位:1561-1574

  兄フランソワ2世の急逝で10歳で即位。当時、ユグノー戦争の真っ只中で、実権は母カトリーヌが握っていたが、シャルル自身はプロテスタントのコリニー提督を父以上に慕っていたと言われる。
 1572年8月、改革派(プロテスタント)と旧教派の融和を図るため、改革派のナバラ王アンリ(後のアンリ4世)と王妹マルグリットが結婚することになり、コリニーら改革派の貴族たちもその祝賀のためにパリに集まっていた。結婚式から数日後のサン・バルテルミーの祝日である8月24日、ギーズ公の兵がコリニーら改革派貴族を襲ったのをはじめ、市内でも改革派が襲撃され殺された。「サン・バルテルミーの虐殺」といわれるこの事件の犠牲者の数は3千~4千人といわれる。ナバラ王アンリは捕らえられ、カトリックへの改宗を強制された。この虐殺を指示したのは、王母カトリーヌかギーズ公であるかははっきりとわかっていない。
 シャルル9世は虐殺の際、「皆殺しにせよ!」と狂ったように叫んでいたというが、この惨劇と父のように慕っていたコリニー提督の死で、元々病弱であった彼の神経はまいってしまったようだ。それから2年後に24歳で他界した。
 

生1550-没1574

《父》 アンリ2世
《母》 カトリーヌ・ド・メディシス

《王妃》 エリザベート・ド・ドートリッシュ
《子》 マリー・エリザベート



アンリ3世


アンリ3世


在位:1374-1489

 アンリ2世の3男として生まれ、兄弟の中でも母カトリーヌの愛を特別に受けて育ったとされる。1773年からポーランドの王位についていたが、74年に兄シャルル9世が急逝すると、呼び戻されてフランス王位を継承した。
 政治的には母后カトリーヌが大きな力を握っていたが、新教徒側のブルボン家のナヴァール王アンリ(後のアンリ4世)や旧教側の有力者ギーズ公と勢力争いを続け、「3アンリの戦い」と呼ばれた。1588年10月、だまし討ちによりギーズ公アンリを暗殺するが、翌年にはアンリ3世自らが狂信的なカトリックの修道士ジャック・クレマンに暗殺された。 アンリ3世の死により、261年続いたヴァロア家は断絶した。アンリは即位のすぐ後にルイーズ・ド・ロレーヌと結婚していたが、2人に子供は授からなかった。アンリは女嫌いであったとされ、ヴァロア家の行く末を心配した母后カトリーヌは様々な努力をしたと言われる。
 歴史の皮肉か、これまでヴァロア家と争ってきたナヴァール王アンリ(アンリ3世の妹マルグリットの夫)が「アンリ4世」としてフランス王位を継承した。これにより、フランスはヴァロア家からブルボン家の時代へと移っていった。 

王妃ルイーズ
     ・ド・ロレーヌ

  ルイーズ・ド・ロレーヌ



王妹マルグリット
    ・ド・ヴァロア
 マルグリット・ド・ヴァロア 
アンリ2世と王妃カトリーヌの王女として生まれる。色男好みで淫乱な女性として知られ、ギーズ公アンリとも愛人関係にあり、国王となった兄弟たちとの近親相姦の噂もあった。ナヴァール王アンリと政略結婚し、兄たちの死後、アンリ4世の王妃となるが、離婚して愛人を次々変える放蕩の人生を送ったとされる。
 映画化されて話題になった。「王妃マルゴ」は、デュマの小説原作であるが、彼女を取り上げたものである。
第13代
生1551-没1589


《父》 アンリ2世
《母》 カトリーヌ・ド・メディシス


《王妃》 ルイーズ・ド・ロレーヌ


新旧両派の宗教的な和睦の結果、長い国内の分裂を終結させてフランスには新たなブルボン王朝が誕生した。
これから絶対王政の時代に入り、華やかな王朝文化が展開される。
そして、、、。