コロンブスの新大陸発見
新しい大陸を発見したコロンブス一行その後、スペインの新しい領土には「副王」が置かれていたが、本国の支配はなかなか行き届かなかった。
1494年 フランス王シャルル8世のイタリア
      遠征。教皇アレクサンドル6世、
      神聖ローマ帝国やスペインなどと
      神聖同盟結び、フランス軍排除。


1495年 ダヴィンチ「最後の晩餐」(〜97)

1498年 ミケランジェロ、サンピエトロ寺院
      のピエタに着手
1499年 フランス王ルイ12世、ミラノ征服。
      ミラノ公イル・モーロ幽閉。


1503年 スペインのコルドバ将軍がナポリ
      征服。スペインのナポリ支配開始。

1503年 ダヴィンチ、「モナリザ」制作開始

1506年 教皇ユリウス2世、ドイツで贖宥
      状の販売開始。
1508年 ミケランジェロ、システィーナ礼拝
      堂の天井画の制作開始(〜12)

1511年 教皇ユリウス2世が神聖同盟を結
      んでフランスに対抗。

1514年 スフォルツァ家がミラノに一時復帰
1515年 フランス王フランソワ1世がミラノ
      に再度侵攻。

1517年 ルターの「95カ条の論題」提示。
      宗教改革始まる。
1519年 教皇レオ10世、ルターを破門。

1521年 教皇レオ10世と皇帝カール5世、
      神聖同盟を結び、ミラノ奪還。
1521年 教皇レオ10世、死去。

★ 当時のイタリア情勢 ★
★ 歴代ローマ教皇の肖像 ★
  ↑レオ10世
←ハドリアヌス6世
アレクサンドル6世→
   ↓ユリウス2世
レオ10世
 さて、先の皇帝選挙でカール5世に敗れたフランソワ1世は一時はガッカリしたものの、その切り替えの速さは天性のものなのか、あっという間でした。フランスは先々代のシャルル8世の時代からミラノとナポリの統治権を主張して北イタリア侵入を繰り返してきましたが、自分の手にあるミラノを足がかりにナポリをも我がものにしようと虎視眈々と準備を始めたのでした。
 そんなフランスの動きに恐れをなしたのが、これまでフランソワ1世と組んでいた教皇レオ10世でした。レオ10世はフランソワの強引さに嫌気がさしていたこともあって、彼と対立するカール5世と結ぶことにしたのです。おりしも、ヴォルムスの帝国会議でのカール5世の毅然とした態度を聞き、カトリックの擁護者として頼もしく思ったのでした。こうして、皇帝カール5世と教皇レオ10世の同盟は1521年5月に成立しました。
 皇帝と教皇の連合軍は2万を越える大軍となり、ロンバルディア平原を進撃して、ミラノを包囲。恐れをなしたミラノのフランス軍は戦わずして逃げ出し、連合軍は兵を失うことなくミラノを奪回することに成功したのです。また、フランスは同時にブルゴーニュにも進軍していましたが、連合軍はここでもフランス軍を一網打尽にし、占領されていた司教都市トゥルネの奪還にも成功します。こうして始まったイタリアをめぐるフランスとの一連の戦いを「イタリア戦争」と呼びますが、この争いは1544年まで続くことになります。
 1521年11月には、カール5世はスペインへの帰路、ロンドンに立ち寄りってイギリス王ヘンリー8世と同盟を結びました。当時、ヘンリー8世の王妃はカールの母フアナの妹であるカタリーナ(キャサリン・オブ・アラゴン)でした。これにより、ヨーロッパにおけるフランスの孤立はますます深まったのでした。
 
 そして1521年12月には、教皇レオ10世が急逝します。まだ40代の若さで、死因については様々な説がありました。レオ10世といえば、イタリアルネッサンスの発展に大きな貢献をしたメディチ家の出身。聖職者でありながら享楽的で、湯水のように浪費して教会の財政破綻を招き、宗教改革の起きる要因をつくった一方で、ミケランジェロ、ラファエロらの芸術家のパトロンとなり、ローマを中心とするルネサンス文化の最盛期を築いた人物でした。
 そして、そのレオ10世の後継者として次の教皇に選ばれた枢機卿は、長くカール五世の側近として活躍したアドリアン・フォン・ユトレヒトでした。新教皇は「ハドリアヌス6世」と呼ばれますが、アレクサンドル6世、ユリウス2世、レオ10世と3代続いた享楽的な教皇と違って、まさにローマ教皇と呼ぶにふさわしい敬虔な宗教人でした。執拗にイタリア進出を企てるフランスとローマ教会の腐敗により発生した宗教改革に頭を悩ます皇帝カールが、新教皇の誕生を何より喜んだのは言うまでもありませんでした。

 こうして事態を何とか収集したカール5世は、1522年7月に3年ぶりにスペインに凱旋しました。この3年の間に皇帝としての威厳を備えたカールが帰国してすぐ着手したことは、国内の反乱分子の平定でした。「コムネーロスの乱」の首謀者たちを徹底的に洗い出して処罰したのです。王に背くものは高位の聖職者も例外ではなく、カールは王として断固たる態度で臨んだのです。フランスやイギリスに比べると遅れていた王権の確立は、スペインでもこうして少しずつ進みました。また、最初は対立していた地元のスペイン人とブルゴーニュ人たちも、時が経つにつれ婚姻などにより融和していきました。そうして、カールはスペインを統治する君主カルロス1世として確固たる地位を築いていったのでした。
 スペインはイベリア半島の本国のほかに新大陸の領地やイタリアのナポリ、シチリア、そしてカールの母国ブルゴーニュなどに領地を所有していました。あまりに広大な領土を1人の王が治めるのは不可能だったので、それぞれの地域には王の代理として領土を治める副王が置かれました。
 また、これらの組織を束ねて、円滑に王国を運営していくために王に特属する諮問会議が設けられ、様々な政策が討議されました。諮問会議は宰相のガッティナラが統率しましたが、そのほか侍従長ナッサウ侯、有力貴族のアルバ公、トレド司教などがメンバーでした。スペインは様々な地域や人種の集合体だったので、多種多様な問題を処理しなくてはなりませんでした。そこで、諮問会議の下には、軍事や宗教をはじめとする様々な下部の組織が作られたのですが、スペインでは身分を問わず有能な人物の登用を行なったこともあって、この新しい政治機構はすこぶる円滑に機能したのでした。特に成果を上げたのは、中世の古い封建制度の体質が残っていた財政面の改革です。宰相ガッティナラが、フランドルの財務会議に似た制度を発足させたことにより、スペインの財務体質は健全化し、財政再建は成功を収めました。
 スペインの政治機構がこのように組織的に機能するように整備されたので、国王カルロス1世は安心して神聖ローマ帝国の皇帝として世界に飛び出していくことができたのです。

ユリウス2世
ハドリアヌス6世
アレクサンドル6世
第6話.フランソワ1世とのイタリア戦争ついに開始!
      スペインではようやく国内体制の基盤を確立
カール5世A
どらまちっく・ひすとりー
カール5世
ミラノ スフォルツァ城
ミラノのスフォルツェスコ城の城壁
16世紀初めのミラノは、、。

ミラノを中心とするミラノ公国を15〜16世紀に支配したのは、スフォルッツァ家。芸術を保護し、1494年にはレオナルド・ダ・ヴィンチを招いています。しかし、同年、フランスの侵略が始まりました。ミラノは神聖ローマ帝国や教皇と組んでこれに対抗しますが、1499年、当主イル・モーロは幽閉され、ミラノはフランス軍に征服されていました。
教皇領
ナポリ王国
(スペイン領)
ロンバルディア平原
ローマ●
●ミラノ
イタリア半島MAP