フランス王家の歴史

カペー朝からヴァロア朝へ カペー朝からヴァロア朝へ
  カペー朝第10代の国王フィリップ3世の子、シャルルが1285年にヴァロワ伯に封じられヴァロワ家を創始。その後1328年にカペー朝が断絶した際、フィリップ3世の孫に当たるフィリップ6世が諸侯の推挙により即位してヴァロワ朝が成立した。1589年までの間に13代の王を輩出した。
 当時のイングランド王エドワード3世もフランス王家の血を引いている人物であったことから、エドワード3世はフランス王位とフランス北部における領土を要求し、1337年から「百年戦争」と呼ばれる英仏の長期の争いが開始することとなった。


←シャルル4世 フィリップ6世 ジャン2世 シャルル5世 シャルル6世 シャルル7世 ルイ11世 シャルル8世 ルイ12世


国王 主な出来事 王妃など


フィリップ6世





ヴァロア朝初代 在位:1328−1350

 カペー朝最後の国王シャルル4世が男子を残さず他界したため、フィリップ3世の子の孫にあたるフィリップ6世が即位。フランス王位候補者の一人だったイングランドのエドワード3世もフィリップの王位を認め、ギュイエンヌの所有について臣従の宣誓をした。
 しかし133年、エドワードと敵対したスコットランド王デイヴィッド2世がフランスに亡命してきた際にフィリップがこれを歓迎した。エドワードはこれを侮辱とし、フランス王位要求を再燃させ、英仏の関係は一気に悪化した。そして、1337年から英仏は「百年戦争」という長期に渡る戦乱に突入した。
 1340年のスロイスの海戦で破れた後、1346年にクレシーの戦いでも敗北。さらに翌年、カレーを占領される。相次ぐ敗戦で経済も混乱し、塩の専売特権を制定して対処しようとしたが、流れを押しとどめることはできなかった。

クレシーの戦い

生1293−没1350

《父》  シャルル・ド・ヴァロア
《王妃》 ジャンヌ (ブルゴーニュ公女)

《子》  ・ジャン2世
     ・フィリップ(オルレアン公)

     ほか


ジャン2世


ジャン2世

第2代 在位:1350−1364

 百年戦争の最中の1350年に、父フィリップ6世の後を継いで即位した。1355年、エドワード黒太子の率いるイングランド軍が侵攻してくると、王太子シャルルとともに出陣した。しかし、56年のポワティエの戦いで大敗してジャン2世自らイングランド軍の捕虜となった。
 一時は多額の身代金と領土割譲を交換条件として釈放されたが、身代金の一部しか支払われなかっため再び捕囚され、フランスは王太子シャルルが摂政として統治した。ジャン2世はエドワード黒太子から手厚い処遇を受け、1364年に虜囚のままでロンドンで没した。

 エドワード黒太子 
エドワード黒太子
イングランド王エドワード3世の長男で、百年戦争前期にイングランド軍を率いて連戦連勝の大活躍。ジャン2世も黒太子の捕虜となった
善良王 (le Bon)
生1319−没1364

《父》 フィリップ6世
《王妃》ボンヌ・ド・リュクサンブール
       ※ボヘミアヨハン(盲目王)の娘で
        神聖ローマ帝国皇帝カール4世の
        同母姉。
《子》・シャルル5世
   ・ルイ(アンジュー公)
   ・フィリップ(ブルゴーニュ公)
   ・ジャンヌ
(ナバール王国カルロス2世妃)
    ほか



シャルル5世



シャルル5世


第3代 在位:1364−1380

 父ジャン2世がイングランドに捕囚されてしまったため、摂政のまま国政を行なった。貨幣鋳造や課税強化をを行ない、ジャックリーの一揆(農民一揆)などが起こったがこれを平定。長い戦乱で国内は荒廃したため、領土割譲などフランスには不利な条件であったが、1360年にイングランドのエドワード3世と「ブレティニーの和約」を結び、百年戦争を一時休戦させた。
 1364年、ロンドンで父ジャン2世が他界したため、正式に王位に就く。常備軍を創設するなど軍備を整え、名将ヴェルトラン・デュ・ゲクラン将軍を重用して失った国土の回復に闘志を燃やす。治世末には王国内の領土をほぼ奪回した。軍事面だけでなく、学芸の保護にも努めた。1380年食中毒により急死。


賢明王
(le Sage)・税金の父
生1338−没1380

《父》 ジャン2世

《王妃》 ジャンヌ (ブルボン公女)
《子》 ・シャルル6世
    ・ルイ (オルレアン公)
     ほか



シャルル6世


シャルル6世


第4代 在位:1380−1422

 父の急死により11歳で王位に就き、当初4人の叔父が摂政となったが悪政が続き、各地で反乱が続発した。88年より親政を始めるが、1392年、ブルターニュへの遠征でイングランド軍に敗戦した際に発狂して精神異常者となってしまった。その後、叔父に当たるブルゴーニュ公を中心とする封建貴族のブルゴーニュ派と、弟オルレアン公ルイを中心とするアルマニャック派(国王派)に分かれ、国内諸侯はフランスの主導権をめぐって争うようになった。
 この内乱を上手く利用したのが、イングランドのヘンリー5世。両派からの支援要求を逆手に取って、条件としてフランスの王位継承権まで要求した。シャルル6世がこれを拒絶すると、ヘンリー5世はフランスに侵攻を開始。1515年のアザンクールの戦いでフランスは歴史的な敗北を喫した。1520年のトロアの和約で、王女カトリーヌをヘンリー5世妃とし、ヘンリー5世をフランスの王位継承者として認めることとなった。
 しかし2年後の1422年に、まずヘンリー5世が赤痢の感染により他界すると、続くようにシャルル6世も病死。これにより英仏の争いの火種は次の世代に持ち越されることとなった。
 シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの間には多くの子女があったが、王太子となった息子を相次いで失くすなど、不幸も続いた。そして、王妃イザボーは妖艶な女性であったが、その奔放な性格と行動で国政をも混乱させた人物で、家庭的にも恵まれない王であった。


王妃イザボー・ド・
バヴィエール


  イザボー・ド・バヴィエール
イングランドのリチャード2世妃となるイサベルを筆頭に11人の子を出産したが、フランス史では悪名高い王妃として知られる。戦乱のため国庫は尽きそうになっても自分の欲望と快楽のため宮廷費を使い込み、浪費を続けた。
 シャルル6世が精神を病むと王弟オルレアン公ルイを愛人にして政治に介入。百年戦争で疲弊した国は乱れ、内戦状態に拍車をかけた。国の利益よりも、常に自分が有利になるように同盟の相手を変え、時には国の敵であるイングランド王とも手を結んだ。イサボーはイングランド王にフランスの王位を譲っても娘を嫁がせておけば自らの立場は安泰だと考えたのだった。
 


狂気王
(le Fou)・親愛王
生1368−没1422


《父》 ジャン2世

《王妃》 イザボー・ド・バヴィエール
     (バイエルン公女)  

《子》 ・イサベル
        (英リチャード2世妃、
         オルレアン公シャルル妃)

    ・ルイ (王太子)
    ・ジャン (王太子)
    ・カトリーヌ
(ヘンリー5世妃)
    ・シャルル7世
     ほか



シャルル7世


シャルル8世


第5代 在位:1322−1461

 当時、フランスはの百年戦争で連戦連敗を続け、領土はブールジュとその周辺を支配するにすぎなくなり、滅亡寸前の状態となっていた。そんな中、シャルルはシャルル6世の5男として生まれ、兄たちの相次ぐ死によって13歳で王太子となる。しかし、父シャルル6世がフランスの王位継承権をイングランドのヘンリー5世に譲ったため、その子ヘンリー6世(姉カトリーヌの子)がフランス王を名乗っていた。そんな混沌とした状況の中、シャルルもアルマニャック派の諸侯に支持されて王位継承を宣言していたが、ブルゴーニュ派に反対されて正式に即位することができず、フランスは無政府状態であった。

 イングランドはブルゴーニュ派と再び提携して、1428年にはアルマニャック派の拠点であったオルレアンを包囲した。しかし、このときジャンヌ・ダルクの活躍によってイングランド軍は大敗し、オルレアンの包囲を解いて撤退した。そして1429年7月、シャルル7世はランスのノートルダム大聖堂で正式にフランス王として戴冠式を挙行した。
 その後、シャルル7世はブルゴーニュ派と和解し、フランス軍は連戦連勝を続けたが、1430年5月のコンピエーニュの戦いで捕虜となったジャンヌ・ダルクは火あぶりの刑に処された。
 その後もフランス軍は着実に勢力を伸ばし、1449年にはルーアンを奪回し、50年にはノルマンディーも奪回。そして、1453年にカスティヨンの戦いでイングランド軍を破り、北フランスにおけるイングランド領の大半を奪還すると共に百年戦争に終止符を打った。
 内政面でも、大商人クールを重用して財政改革を成功させたほか、軍備の整備など国家形成と王権の確立に貢献した。しかし、晩年は王太子ルイとの不和などから精神が不安定になり、毒殺を恐れて食事を拒み餓死したとされる。
 

シャルル7世の戴冠式での
ジャンヌ・ダルク
ジャンヌ・ダルク







寵姫アニェス・ソレル

 アニェス・ソレル 

1422年、フロントの町で生まれるが、出仕ははっきりしない。シャルル7世の寵愛を受け、フランス初の公式寵姫となり、4人の王女を出産する。しかし、28歳の時に非業の死を遂げる。シャルル7世と対立していた王太子ルイ(後のルイ11世)による毒殺の説もある。
詳細ページへ



勝利王
(le Victorieux)
生403−没1461

《父》 シャルル6世

《王妃》 マリー・ダンジュー
       
 (アンジュー公女)

《子》 ・ルイ11世
     ほか多数
   
    ・シャルロット(庶子)



ルイ11世

ルイ11世


第6代 在位:1361−1483

 王太子時代から父シャルル7世と対立し、数々の陰謀にも加担。その父の死に関与している疑いが強いとされている。スコットランド王ジェームズ1世の娘マーガレットと結婚するが、この結婚によりルイはイングランドの政治に関心を持つ。
 1461年に王位についた後は、王権の強化とフランス領内の大諸侯の権力を減殺するのに余念がなかった。強敵ブルゴーニュ公シャルル(突進公)と争い、シャルルの戦死に乗じてブルゴーニュの大半をフランスに併合するなど、フランスの王国としての支配の基盤を固めた。(関連ページへ) 武力行使も度々行なったが、戦争よりも主に外交・政治的な陰謀を用いて国内平和を保ち、シャルル7世の中央集権化政策を引き継いで、百年戦争で荒廃したフランスを統一させることに成功した。そのほか、商工業の振興、郵便制度の創設、印刷術の導入などにも功績があった。
 王妃マーガレット死後、8歳のシャルロット・ド・サヴォワ政略結婚を行なった。


偏在する蜘蛛 
(l'universelle aragne)
生1423−没1483

《父》 シャルル7世

《王妃》
 @マーガレット
  
(スコットランド王ジェームズ1世の娘)
 Aシャルロット・ド・サヴォワ

 《子》 ・アンヌ・ド・ボージュ
     ・シャルル8世     ほか


シャルル8世


シャルル8世


第7代 在位:1383−1498

 ルイ11世の一人息子として1470年アンボワーズ城で生まれた。83年父王の死去により13歳で即位したが、姉のアンヌ・ド・ボージュ夫妻の摂政下に置かれた。21歳の時、ブルターニュ公国の継承権を持つアンヌと政略結婚。それまでブルターニュはフランス王国に形式的には臣従していたが、実質的には独立公国であった。アンヌとの結婚によりブルターニュを王領に加えることで、実質的に領土の拡大が実現できた。
 そして1494年には16世紀のヨーロッパに重大な影響を与えることになる「イタリア戦争」を開始した。ナポリ王国の継承権を主張してイアリア半島を南下。ローマを経て1495年2月にナポリに入城し、シャルルはナポリ王の戴冠を行なった。しかし、フランスのイタリア介入を嫌うヴェネチアやローマ教皇、ミラノ公らのの同盟軍に包囲され、多大の損害を出してフランスに逃げ帰った。このイタリア遠征は失敗に終わり莫大な負債を抱えることになったが、文化的に遅れていたフランスが初めてイタリア=ルネサンスに触れることとなった。
 精力盛んに権力の拡大を図ったシャルル8世だったが、うっかり鴨居に頭を打ちつける事故で1498年にあっけなく他界した。後継者はいなかったため、シャルル5世の曾孫に当るオルレアン公がルイ12世として王位を継いだ。シャルル8世の死によって、ヴァロア朝の本流は断絶した。


王妃アンヌ・ド・ブルターニュ

アンヌ・ド・ブルターニュ

 1774年、ブルターニュ公フランソワ2世の一人娘として生まれた。88年父ブルターニュ公が落馬事故により急逝すると、アンヌが11歳未婚のまま後を継いだが、ブルターニュの領主たちは支配権をめぐって互いに争った。 
 この内紛に乗じてフランス王シャルル8世がブルターニュに侵入し、アンヌとの結婚を迫った。やむなくアンヌはシャルル8世と結婚し、4人の子を儲けたが、いずれも成人には達せず。その後、アンヌは後を継いだルイ12世とも結婚し、2女を残す。


温厚王
(生1470−没1498

《父》 ルイ11世

《王妃》
 アンヌ・ド・ブルターニュ


《子》 成人せず

百年戦争を乗り越えて王権の強化されたヴァロア朝は、イタリア戦争の真っ只中へ。
そして、いよいよフランスにもルネサンス文化の到来です。