「ブルゴーニュのマリー」の名で親しまれているマリー・ド・ブルゴーニュ(独名マリア・フォン・ブルグント)は、ヴァロア・ブルゴーニュ家の4代目君主シャルル突進公の一人娘。その可憐さから領民たちからも広く慕われていたが、父の死によって20歳でブルゴーニュ公国を継承する。しかし、フランスのルイ11世の侵略を受け、内乱も起こって窮地に陥り、父の決めた婚約者ハプスブルク家のマクシミリアンと結婚。1男1女を得て幸せな結婚生活を送るが、結婚5年目に落馬が原因で25歳の短い一生を終えた。 |
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世界史 美女図鑑 |
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1. 豊かな国の美しき公女をめぐる諸国の思惑と
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公女マリーを取り巻く人たち | |||||||||||||||||
父 シャルル突進公 ヴァロア・ブルゴーニュ家の4代目のブルゴーニュ公。「テメレール」(Téméraire)と呼ばれ、「突進公」「勇胆公」「無鉄砲公」などと訳される。公国の領土拡張を図り、フランス王ルイ11世と常に敵対し、戦いに明け暮れた。43歳で無念の戦死。 |
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義母 マルグリッド・ド・ブルゴーニュ ヨーク公リチャードの娘としてイングランドで生まれ、エドワード4世、リチャード3世の妹。(英名はマーガレット・オブ・ヨーク) 22歳の時にブルゴーニュ公シャルルと結婚。義理の娘となった公女マリーとは11歳しか歳が違わず、姉妹のように仲が良く、一番の理解者だった。 後に、母国イングランドでリチャード3世がヘンリー7世に王位を奪われると、反ヘンリー派の支援をしたことも知られている。 |
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婚約者 マクシミリアン ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の嫡男として、ヴィーナー・ノイシュタットにて1459年に生まれる。母はポルトガル王女のエレオノーレ。 武勇に秀で、立派な体躯に恵まれ、また芸術の保護者であったことから「中世最後の騎士」と謳われ、1493年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世として戴冠。子や孫による結婚政策により勢力の拡大に成功し、ハプスブルク繁栄の基礎を築いた。 |
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ブルージュの聖血礼拝堂の 正面入り口にある ブルゴーニュのマリーの像 |
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2. 父・シャルル突然の戦死で窮地のマリー、 |
3. 幸せな結婚生活に突然の悲劇が、、、 ブルゴーニュは再び動乱に 政略結婚ではあったものの、新婚のマリーとマクシミリアンとは非常に仲むつまじかった。当時ブルゴーニュではフランス語とフラマン語が話されていたが、マクシミリアンはどちらも話せず、中世の公用語であるラテン語で会話をしたが、お互いの母国語を教えあい、すぐさま習得。また、嬢様育ちにしては活発な女性だったマリーは乗馬が得意で、2人は共に馬を走らせて遠乗りや狩りを楽しんだ。結婚の翌年には早くも嫡男のフィリップが誕生した。この男の子はその美しさから「フィリップ美公」と呼ばれるようになるが、幼い頃から愛らしかった。後継者の誕生によって、その父であるマクリミリアンのブルゴーニュでの地位も少しは安泰となり、若い夫妻は幸せいっぱいだった。 |
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マリー・ド・ブルゴーニュゆかりの場所 | |||||
ゲント 聖バーフ大聖堂 マリーとマクシミリアンが結婚式を挙げた場所。ベルギーの7大至宝の一つ、ファン・アイク兄弟の「神秘の子羊」の展示されていることでも有名。 ※詳細クリック→ |
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ブルージュ 聖血礼拝堂 元々はフランドル伯家のための礼拝堂だったもので、市庁舎などの立つブルク広場の一角に立つ。正面には「ブルゴーニュのマリー」の金の像も掲げられている。 ※詳細クリック→ |
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ブルージュ 聖母教会 ブルージュのシンボル的教会で、「ブルゴーニュのマリー」が父・シャルル突進公とともに眠っている。ミケランジェロの「聖母子像」が安置されていることでも有名。 ※詳細クリック→ |
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→聖母教会に堂々と安置されている「ブルゴーニュのマリ」ーと父・シャルル突進公の棺。 ←棺の上に横たわるマリーの像からもその美しさと気品が伝わってくる。 |
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4. 気高きブルゴーニュのマリーの血は ハプスブルクで子から孫へと見事に花開く |
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彼女の願いも空しくブルゴーニュ公国は再び内乱の渦となる。ルイ11世は好機到来とばかりにブルゴーニュに兵を送り、ゲントやブリュージュの急進派をたきつけてマクシミリアンの追い落としにかかり、まだ4歳のフィリップを擁立して反乱を起こさせる。マクシミリアンは幽閉され、ルイ11世と「アラスの和」を結び、ブルゴーニュの支配者の座を追われ、愛妻マリーの残した2人の子供たちと引き離された。フィリップはゲントの急進派の監視下に置かれ、3歳のマルグリットはフランス王太子シャルル(後のシャルル8世)と婚約させられ、フランスで養育されることとなった。 |
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デュシャス・ド・ブルゴーニュ (Duchesse de Bourgogne) ※ラベルに印刷されているのは マリーの肖像→ フランス語で「ブルゴーニュ女公」の名を持つビール。 赤褐色で、甘みと軽い酸味がありさわやかな味わい。 |
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ブルゴーニュのマリーの子供たち | |||||
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