「ブルゴーニュのマリー」の名で親しまれているマリー・ド・ブルゴーニュ(独名マリア・フォン・ブルグント)は、ヴァロア・ブルゴーニュ家の4代目君主シャルル突進公の一人娘。その可憐さから領民たちからも広く慕われていたが、父の死によって20歳でブルゴーニュ公国を継承する。しかし、フランスのルイ11世の侵略を受け、内乱も起こって窮地に陥り、父の決めた婚約者ハプスブルク家のマクシミリアンと結婚。1男1女を得て幸せな結婚生活を送るが、結婚5年目に落馬が原因で25歳の短い一生を終えた。
 マリーの死後、動乱を経てブルゴーニュはハプスブルク家の支配下に入るが、夫マクシミリアンは神聖ローマ帝国の皇帝となり、マリーの孫に当たるカール5世によってハプスブルク家は大帝国を築きあげることになる。

世界史
美女図鑑
いと麗しき高貴な姫君の短き波乱の人生

1. 豊かな国の美しき公女をめぐる諸国の思惑と
  紆余曲折の婚約者選び

15世紀、ヴァロアブルゴーニュ家のブルゴーニュ公国は、ヨーロッパ随一の豊かさと文化的成熟さを誇っていた。ブルゴーニュ家は、フランス王家の支流であり形式上はフランスの支配下にありながらも、歴代君主はフランス王家と敵対し、事実上の独立国家として繁栄した。1457年、マリー・ド・ブルゴーニュは、そんな輝かしいブルゴーニュ公国の唯一の後継者として、ブリュッセルで生まれた。父は4代ブルゴーニュ公シャルル突進公(テメレール)で、マリーは2番目の妃イザベラを母として誕生した。
 マリーの父は、「テメレール」の名の表すとおり、勇猛であったが無鉄砲な君主であった。彼の野心はブルゴーニュ公国の領土を広げて大帝国を築き上げ、自ら公爵の立場から王や皇帝の座に昇格させることであった。そして、テレメール公は豊かな財力をバックに時のフランス王ルイ11世に歯向かい、幾度も国王軍を圧倒し、破竹の勢いだった。
 マリーの母イザベラが他界すると、テメレール公は3番目の妃として、イングランドのヨーク家の出身でエドワード4世の妹に当たるマルグリッドを迎えた。マリーは、この若くて優しい義母の愛情にはぐぐまれ、何不自由なく恵まれた少女時代を送る。公女マリーは愛らしい美少女に成長し、領民たちからも「美しき姫君」「我らのお姫さま」と慕われていた。
 そんなヨーロッパで一番豊かな国の美しい姫君が、どこの国の誰と結婚するかは各国の大きな関心事となった。ブルゴーニュ公である父シャルルにはいまだ嫡男がいないとあって、各国の政治的野心がからみ、マリーには幼い頃から幾多の縁談が持ち込まれた。しかし、愛しい一人娘の結婚には野心家のシャルル突進公も慎重だった。野心家の彼のお眼鏡に叶う候補者はなかなか見つからなかった。
 しかし、神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ3世が嫡男のマクシミリアンとの縁組を申し込んでくると、この縁談には乗り気になった。ハプスブルク家は財力も領土もブルゴーニュ家に比べると微力であったが、「神聖ローマ帝国」の帝冠がシャルルには魅力だった。
 1473年、シャルル突進公は、皇帝フリードリヒ3世と国境近くの町トリーアで会談をした。シャルルは豪奢な衣装や宝飾品を身につけ、豪華なもてなしをしてブルゴーニュの財力をハプスブルク家の皇帝に見せつけた。この縁談を有利に進めるだった。そして、ブルゴーニュ公シャルルが皇帝に示した条件は、自らを「ローマ王」に推挙してほしいというものだった。「ローマ王」とは次の神聖ローマ皇帝になる後継者の称号だった。シャルルが神聖ローマ帝国の皇帝になった暁には、マクシミリアンを次の「ローマ王」にするという提案である。豊かなブルゴーニュが手に入ることを考えれば、そんなに悪くはない話であったが、慎重なフリードリッヒは判断に迷い、承諾の返事をしないまま結論をうやむやにした。好戦的なブルゴーニュ公を「ローマ王」にするとなったら、周辺各国の反発を招くのは目に見えていた。皇帝と言ってもハプスブルクはまだ微力な諸侯でしかなかったため、各国・諸侯の思惑やバランスを考慮する必要があったのだ。
 シャルル突進公は面子をつぶされて悔しがったが、実は父フリードリヒに帯同していたマクシミリアンをとても気に入っていた。精悍な体格でブロンドの髪の利発な14歳の少年は、大事な一人娘のマリーとお似合いの夫婦になりそうだった。

 突進公テメレールは1473年にはロレーヌを攻めて首都ナンシーを陥落させた。しかし、76年にはフランス王と連合したスイス軍ににグランソンの戦いで手痛い敗北を喫した。そこまで負け知らずだったシャルル突進公はそこから旗色が悪くなった。すると気弱になったシャルルは、ハプスブルクの皇帝フリードリヒに対し、「次期皇帝の座を」という強引な要求を取り下げて、公女マリーとマクシミリアンの縁談をあらためて申し入れた。こうした紆余曲折があって、ブルゴーニュ家とハプスブルク家の婚姻がなんとか整ったのだった。           


仲むつましい新婚のマリーとマクリミリアン

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マリー・ド・ブルゴーニュ
肌は雪のように白く、髪は亜麻色。頭は小さく、鼻も額もちっちゃくて愛らしい、、。目は、茶色と灰色が混ざったとてもキレイな色をしていて、目尻が下がっている。口元は赤くて清らか。彼女はとても美しいが、快活で魅力的、、、。

★夫となったマクシミリアンが故郷への手紙で妻について書いた内容
公女マリーを取り巻く人たち
シャルル突進公
シャルル突進公

ヴァロア・ブルゴーニュ家の4代目のブルゴーニュ公。「テメレール」(Téméraire)と呼ばれ、「突進公」「勇胆公」「無鉄砲公」などと訳される。公国の領土拡張を図り、フランス王ルイ11世と常に敵対し、戦いに明け暮れた。43歳で無念の戦死。

義母
マルグリッド・ド・ブルゴーニュ

ヨーク公リチャードの娘としてイングランドで生まれ、エドワード4世、リチャード3世の妹。(英名はマーガレット・オブ・ヨーク)  22歳の時にブルゴーニュ公シャルルと結婚。義理の娘となった公女マリーとは11歳しか歳が違わず、姉妹のように仲が良く、一番の理解者だった。
 後に、母国イングランドでリチャード3世がヘンリー7世に王位を奪われると、反ヘンリー派の支援をしたことも知られている。


婚約者
マクシミリアン

ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の嫡男として、ヴィーナー・ノイシュタットにて1459年に生まれる。母はポルトガル王女のエレオノーレ。
武勇に秀で、立派な体躯に恵まれ、また芸術の保護者であったことから「中世最後の騎士」と謳われ、1493年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世として戴冠。子や孫による結婚政策により勢力の拡大に成功し、ハプスブルク繁栄の基礎を築いた。

←フランドルを中心としたブルゴーニュの詳しい歴史はこちらから




ブルージュの聖血礼拝堂の
正面入り口にある
ブルゴーニュのマリーの像

2. 父・シャルル突然の戦死で窮地のマリー、
  必死の思いで婚約者マクシミリアンに救いを

 マリーとマクシミリアンの婚約が決まってから数ヵ月後、事態は急転する。1477年1月、シャルル突進公はロレーヌ公とナンシーにて対戦中に戦死したのだった。43歳であった。シャルルと公妃マルグリッドの間には子はなく、唯一残された公女マリーが女公爵となり、豊かなブルゴーニュ公国を継承した。
 目の上のたんこぶだったテメレール公の死を最も喜んだのは、フランス王ルイ11世だった。好機を逃さず即座にブルゴーニュに出兵し、あっさりと領地を占領してしまった。ブルゴーニュは元々はフランス王家の領土であり、ブルゴーニュ公に封土として与えておいたものにすぎないから、返してもらうのが当然という考えだった。
 それに加え、これまでシャルル突進公の独断的な支配に不満のつのっていたフランドルの貴族や商人たちが自分たちの権利の拡大を画策し、反乱を起こした。彼らはフランス王と手を組み、ルイ11世の嫡男の王太子シャルル(後のシャルル8世)との結婚をマリーに迫った。「偏在する蜘蛛」という異名を持つルイ11世はしたたかで智謀に長けていた。王太子シャルルはマリーより10歳も年下で、まだ7歳の少年だった。マリーはこれを拒否し、幽閉同然の暮らしに追いやられる。
 切羽つまったマリーは、まだ会ったこともない婚約者マクシミリアンに必死の思いで、救いを求める手紙を書いた。肖像画で見た婚約者の姿は凛々しく頼もしかったが、今は彼のみが自分を窮地から救い出してくれる白馬の王子様思えて、ただただ恋焦がれた。
 遠いウィーンでこの手紙を受け取ったマクリミリアンは、居ても立ってもいられなくなった。まずは、使節を送って代理結婚を行なわれた。この頃は事態が好転し、ブルゴーニュの議会もマクシミリアンをマリーの結婚相手として承認した。義母マルグリッドがマリーの結婚相手として亡きブルゴーニュ公の定めたマクシミリアンを一貫して主張し、対立する英仏どちらとの関係も壊したくないブルゴーニュの貴族たちは貧しいハプスブルクの息子なら害はないだろうとみなしたからだった。

 実際にマクシミリアンがウィーンを離れブルゴーニュに向かったのは1477年5月のことだった。資金繰りの厳しい皇帝フリードリヒは借金をしてなんとか息子の旅行費用を調達した。花婿の行列は行く先々で話題を集め、様々な歓待を受けた。マクシミリアンは婚約者の待つフランドルへの道を急いだが、旅の費用がかさんでたちまち旅費が底をついた。そんな時、気をきかせたマリーの義母マルグリッドが旅費を調達して届き、なんとか故郷を出発して3ヵ月後にマリーの待つフランドルの街ゲントに到着することができた。マリーは胸を高鳴らせながら夫となる青年を待ちわびていたが、2人はお互いに一目見て恋に落ち、その瞬間から愛し合うようになった。1477年8月、ゲントの聖バーフ教会でささやかな華燭を催し、2人は晴れて夫婦となった。新婦マリーは20歳、夫となったマクシミリアンは18歳だった。夫妻はブルゴーニュの各都市を巡り、温かい祝福を受けた。

3. 幸せな結婚生活に突然の悲劇が、、、
  ブルゴーニュは再び動乱に

 政略結婚ではあったものの、新婚のマリーとマクシミリアンとは非常に仲むつまじかった。当時ブルゴーニュではフランス語とフラマン語が話されていたが、マクシミリアンはどちらも話せず、中世の公用語であるラテン語で会話をしたが、お互いの母国語を教えあい、すぐさま習得。また、嬢様育ちにしては活発な女性だったマリーは乗馬が得意で、2人は共に馬を走らせて遠乗りや狩りを楽しんだ。結婚の翌年には早くも嫡男のフィリップが誕生した。この男の子はその美しさから「フィリップ美公」と呼ばれるようになるが、幼い頃から愛らしかった。後継者の誕生によって、その父であるマクリミリアンのブルゴーニュでの地位も少しは安泰となり、若い夫妻は幸せいっぱいだった。
 そんな幸せを邪魔するかのようにフランスのルイ11世がしつこくブルゴーニュを攻撃してきたが、19歳のマクシミリアンは愛する妻のため、そして新しい故国のため勇敢に戦った。そうした危機を乗り越え、夫婦の絆は一層強まり、ブルゴーニュの人々の信頼も次第に勝ち取っていった。その後、マルグリットと名付けた娘も授かり、(次男フランソワは夭折)2人は幸福の絶頂だった。

 しかし、第4子を妊娠中の1482年3月、2人に突然の悲劇が襲った。夫とともに狩りに出かけたマリーは壕を飛び越そうとして落馬。馬の下敷きになり、肋骨を折る瀕死の重傷を負った。必死の手当の甲斐なく、3週間後に帰らぬ人となったが、死を悟ったマリーは遺言をしたためた。それには「4歳のフィリップと2歳のマルグリットを遺産の相続人とし、嫡男フィリップが15歳に達するまで夫マクシミリアンが後見人としてブルゴーニュの統治に当たるもの」と書かれていた。そして、枕元に家臣を呼び、「夫マクシミリアンに忠誠を尽くすように」と言い残してこの世を去った。結婚から5年、まだ25歳だった。
 誰からも愛された美しい公女マリーの死は、ブルゴーニュの人々に強い衝撃を与え、深い悲しみに包まれた。マリーの葬儀には1万5千人もの人々がつめかけ、さめざめとその早い死を悼んだ。マリーはブルージュ聖母教会に埋葬され、今も父シャルルと共に並んで安置されている。

マリー・ド・ブルゴーニュゆかりの場所
ゲント

聖バーフ大聖堂

マリーとマクシミリアンが結婚式を挙げた場所。ベルギーの7大至宝の一つ、ファン・アイク兄弟の「神秘の子羊」の展示されていることでも有名。
※詳細クリック→
聖バーフ大聖堂

聖血礼拝堂 ブルージュ

聖血礼拝堂

元々はフランドル伯家のための礼拝堂だったもので、市庁舎などの立つブルク広場の一角に立つ。正面には「ブルゴーニュのマリー」の金の像も掲げられている。
※詳細クリック→

ブルージュ

聖母教会

ブルージュのシンボル的教会で、「ブルゴーニュのマリー」が父・シャルル突進公とともに眠っている。ミケランジェロの「聖母子像」が安置されていることでも有名。
※詳細クリック→

マリーと父シャルルの棺聖母教会に堂々と安置されている「ブルゴーニュのマリ」ーと父・シャルル突進公の棺。




マリー像
←棺の上に横たわるマリーの像からもその美しさと気品が伝わってくる。
4. 気高きブルゴーニュのマリーの血は
  ハプスブルクで子から孫へと見事に花開く


 彼女の願いも空しくブルゴーニュ公国は再び内乱の渦となる。ルイ11世は好機到来とばかりにブルゴーニュに兵を送り、ゲントやブリュージュの急進派をたきつけてマクシミリアンの追い落としにかかり、まだ4歳のフィリップを擁立して反乱を起こさせる。マクシミリアンは幽閉され、ルイ11世と「アラスの和」を結び、ブルゴーニュの支配者の座を追われ、愛妻マリーの残した2人の子供たちと引き離された。フィリップはゲントの急進派の監視下に置かれ、3歳のマルグリットはフランス王太子シャルル(後のシャルル8世)と婚約させられ、フランスで養育されることとなった。
 しかし、1483年に宿敵ルイ11世が急逝するや、事態は好転。マクシミリアンは巻き返しに成功し、フランスの影響下にあったブルージュやゲントを制圧し、再びブルゴーニュの君主の座に返り咲いた。その後、マクシミリアンは1493年に父フリードリヒ3世の後を継いで神聖ローマ帝国皇帝の座につき、皇帝マクシミリアン1世として君臨することになるが、複雑な利害の絡んだヨーロッパの政局を束ねるのは茨の道であった。
 しかし、ハプスブルクには大いに運も味方した。「ブルゴーニュのマリー」の遺児フィリップとマルグリッド(マルガリーテ)によるスペイン王家との二重結婚政策が功を奏し、新大陸を含めた広大な領土がハプスブルク家のものとなる。
 「美公」と呼ばれた息子フィリップはスペイン王女フアナとの間に2男4女をもうけたが、長男カールがこの広大な領地を継承し、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世として君臨した。また、マリーの娘マルグリッドは、父マクシミリアンからブルゴーニュの統治を任され、甥のカールを支えてハプスブルク家の繁栄に大きな貢献をした。美しき公女マリー・ド・ブルゴーニュの人生は短かったが、その血は着々と次代へと受け継がれ、花開いた。
 彼女の最愛の夫マクシミリアンは、マリーと死別した後、政治的な意図から後に再婚もするが、彼が生涯愛したのはマリーただ一人だった。愛妻から遅れること36年後、死期の近づいた彼は生まれ育ったヴィーナー・ノイシュタットの聖ゲオルグ教会に母エレオノーレと共に埋葬されることを望んだが、心臓だけは取り出して人生最愛の妻マリーの墓に一緒に埋めてほしいと遺言した。

 そして、美しき公女マリーは、500年以上たった今も変わらずブルゴーニュの人々に愛され続けている、、。


ビールラベルのマリーデュシャス・ド・ブルゴーニュ
(Duchesse de Bourgogne)
         ビール

※ラベルに印刷されているのは
 マリーの肖像→


フランス語で「ブルゴーニュ女公」の名を持つビール。
赤褐色で、甘みと軽い酸味がありさわやかな味わい。


ブルゴーニュのマリーの子供たち

ブルゴーニュ女公だっ母の死後、わずか4歳でブルゴーニュを相続する。 スペイン王女フアナと結婚し、後の皇帝カール5世など2男4女をもうける。 カスティーリャ女王イサベルの死後、唯一の継承者である妻ファナがカスティーリャの王位に就くが、精神錯乱での行政不可能を理由に自ら王位に就き、カスティーリャ王フェリペ1世を 名乗るが、まもなく28歳で死去。


フィリップ美公

マルグリッド・ド・ドートリッシュ

マルグリッド
1480年に誕生し、3歳の時にフランスのルイ11世に王太子シャルルの婚約者として無理やりフランスに送られた。一時、フランス王妃となるが、シャルル8世がブルターニュのアンヌと結婚するためマルグリッドとの結婚を無効にした。その後、97年にスペインのファン王太子と結婚するが半年で夫は病死。続いて結婚したサヴォイア公フィリベルト2世とも死別した。1507年より父マクシミリアンによりブルゴーニュ統治を任され、兄フィリップの子供たちの養育に当たった。
皇帝マクシミリアンと家族
←皇帝マクシミリアンとその家族の肖像画。

マリーを生涯深く愛したマクシミリアンは、結婚5年目に亡くなった愛妻マリーの姿を家族の中に登場させている。マリーの左はフィリップ美公で、前列に並んでいるのはカール5世ほかフィリップの子供たち。