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フランドルを中心としたベルギー史 ゲント

「フランドル」とは、ベルギーを流れるスヘルデ川流域一帯のことで、英語ではフランダースと表記され、日本でも有名な「フランダースの犬」の舞台になった地域です。オランダの南部、ベルギーの西部、フランス北部にかけての部分を指します。
 現在のベルギーではブルージュ・アントワープ・ゲントなど中世の面影を深く残す街が有名ですが、もっと古くへ遡ると、カエサルの征服後、ローマの属州となり、430年フランク族が定着し、ネウストリアの一部となりました。ヴェルダン条約の結果、西フランク王国に属し、862年にフランドル伯領が設置されました。

 その後、この地域は中世の早い時期からリネンやボビン・レースなど繊維産業が発達し、10世紀ごろからヨーロッパで最も裕福な地域として繁栄しました。しかし、フランドルは豊かであるがゆえに争いの絶えない場所でした。古くからフランスの影響の強い地域でしたが、毛織物の生産と交易で栄えるとその供給地イングランドとの関係が近くなり、それが英仏百年戦争の一因にもなりました。
 14世紀初め頃、ヴァロア朝初代のフランス王となったフィリップ6世が豊かなフランドル地方の支配を狙います。フランドル伯は利害の一致するイングランド王エドワード3世と同盟しこれに対抗しますが、フランス軍に反乱を鎮圧されて1300年にフランドルはフランスに併合されます。しかし、フランドルの都市同盟は反乱を起こし、「金の拍車戦争」と呼ばれる戦いでフランス軍を破りますが、その後、再びフランスに制圧され、フランドルは再び不安定な政治情勢に陥りました。
 そんな中、英仏両国の関係が悪化。1336年にはエドワード3世は敵対するフランスへの羊毛の輸出を禁止しました。これにより、材料をイングランドからの輸入に頼るフランドルの毛織物産業は大きな打撃を受け、 翌37年にはゲントで起こった反乱をきっかけに、これにフランドル諸都市が立ち上がり、フランス王の任命した親フランス派のフランドル伯を追放。そして、1337年にフランスの王位を狙ってイギリスのエドワード3世がフランスに攻め込み、歴史上に有名な英仏の百年戦争が始まりました。エドワード3世はフランスに楯突くようにフランドルをけしかけ、それに対しフランスも反撃し、戦いは長期に及びました。1340年には、エドワード3世がイングランドからゲントにやってきてフランス王としての戴冠の儀式を行ない、フランドル都市連合はエドワード3世への忠誠を誓いました。
  その後、百年戦争はイングランド軍の優位で進みましたが、1363年にフランス王ジャン2世末息子フィリップ(シャルル5世の弟)に空位となったブルゴーニュ公の地位与え、ブルゴーニュはヴァロア家のものとなりました。そのブルゴーニュ公フィリップ2世は豪胆公(Le Hardi)と呼ばれている人物ですが、フランドル伯の娘マルグリットと結婚して相続権も引き継いだため、フランドルはブルゴーニュ公国の一部となりました。その後の百年戦争中のフランスはブルゴーニュ派とアルマニャック派(国王派)に分裂して内乱状態にありましたが、ブルゴーニュ公は親イングランドのブルゴーニュ派の中心人物として重要な役割を担いました。
 ブルゴーニュ公国はフランス王の臣下といっても極めて独立性が高く、都となったディジョンやブリュッセルなどを中心に400年に渡り繁栄しました。ブルゴーニュは富裕な貴族や商人の庇護の下、フランドルを中心に芸術も花開き、16世紀にはその繁栄の円熟期を迎えました。
 

 

フランドルの変遷


ローマの属州


フランク王国
 (5世紀〜)


西フランク王国領
(9世紀半ば〜)


フランドル伯領
 (9世紀後半〜)


ブルゴーニュ公国領 
 (14世紀悪後半〜)


神聖ローマ帝国支配
(15世紀末〜)

スペイン王国支配
(16世紀半ば〜)

オーストリア支配
(18世紀初め〜)

ナポレオンによる占領
(18世紀末)

オランダへ併合
(19世紀初め〜)

ベルギー王国樹立
(1830年)


ゲントの金曜広場に建つアルテベルテの像。
1337年のフランドル都市連合の反乱の指導者として知られる。


アルテベルデ
15世紀前半の西ヨーロッパ
百年戦争も後半にさしかかった15世紀前半のフランスを中心にした西ヨーロッパ。ブルゴーニュはイギリス側に立ち、フランスと敵対関係にあった。イギリスの占領地(緑部分)が広大で、戦局はイギリス側が有利に進められた。

フィリップ豪胆公ブルゴーニュ公フィリップ2世
(フィリップ豪胆公)


フランドルの継承権を持つ、マルグリットと結婚により、フランドル伯領
アルトワ伯領をブルゴーニュに併合する。




フランドル女伯マルグリッドフランドル女伯マルグリッド
(マルグリット・ド・ダンピエール)

フランドル伯ルイ2世の長女として生まれ、7歳でブルゴーニュ公フィリップ1世と結婚するが、4年後に死別。後に、ブルゴーニュ公となったフィリップ豪胆公と再婚し、再びブルゴーニュ公妃となる。

 しかし、15世紀後半には4代ブルゴーニュ公シャルル突進公の一人娘で公国を継承したマリー・ド・ブルゴーニュが、ハプスブルク家のマクシミリアンと結婚したことで、今度は神聖ローマ帝国の支配下に入ることになります。神聖ローマ帝国は、続くカール5世の時代に、ドイツやフランドルのみならず、スペインや南米、東南アジアにまで広がる世界大国になりますが、フランドルほかネーデルランドはスペインの支配を受けることになります。
  ヨーロッパに宗教改革の嵐が吹き荒れた16世紀後半、フランドルを含むネーデルランドにもドイツより新教が浸透してきて、カルバン派の信仰が広まります。カール5世の死後、ハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分かれますが、熱心な旧教国であるスペインは厳しい新教弾圧を実施し、支配を強めようとします。これに抵抗してネーデルランド諸州は独立戦争を起こしますが、旧教徒の多いフランドル地方を中心とする南部はスペインの制圧を受けて脱落。新教の多い北部7州のみが最後まで抵抗を続け、1581年にオランダの独立を宣言し、1648年に承認されました。
 その後、オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家によるスペイン継承権争いが起きてブルボン家が勝利しますが、その結果、フランドルはオーストリアの支配を受けることになります。

 その後、1789年にはフランス革命に影響されて革命が起き、ブリュッセルは一時開放されます。しかし、動乱は続き、オーストリアとフランスに交互に支配を受けますが、1794年にナポレオンのフランスに完全に制圧され、ナポレオン失脚後はウィーン会議の結果、オランダに一時併合されることになりました。
  しかし、パリの七月革命に触発されて1830年にブリュッセルで起きた反オランダの暴動は全国に拡大し、各地からの義勇軍がオランダの軍隊を撃退。臨時政府を樹立し、「ベルギー王国」の独立を宣言しました。翌年、ドイツからザクセン=コーブルク=ゴーダ公レオポルドを国王レオポルド1世として迎え、立憲君主国として新国家を発足させ、現在に至っています。


皇帝マクシミリアン1世とその家族の肖像。
右側の女性がブルゴーニュのマリー
3人の子供の中央が後のカール5世


ゲントの街並み

ゲントの街並み




ベルギー王宮

ベルギーの首都・ブリュッセルの王宮