スヘルデ川、レイエ川の合流地付近に位置するゲントは、ケルト語で「合流」を意味する「ガンダ」をその名の由来としています。街の歴史は古く、ノルマン人の侵略に備え、9世紀に建設された城塞都市を起源とします。その後、水運に恵まれたゲントは、ブルージュとともに毛織物の生産・交易の中心地となり、この地を支配したフランドル伯も居城を構えました。
当時のフランドルの繊維産業はリネンから毛織物に変わっていましたが、英国より原材料の羊毛の供給を受け、それを加工して、ヨーロッパ中に売って、多額の利益を得ていました。それゆえ、ゲントは英国と友好関係を築く必要があり、それを心良く思わないフランスの干渉を受けます。おりしも、英仏百年戦争の対立の中、豊かなフランドルを狙う各国や領主の思惑が交錯します。しかし、ゲントの市民は独立心が強く、14世紀には豊かな経済力を背景に幾度も内乱を起こし、時の支配者フランドル伯やブルゴーニュ公の弾圧を受けました。
その後、ゲントを含むフランドルは15世紀後半より神聖ローマ帝国の支配下に入りましたが、ゲントにはその当時、宮廷が置かれており、ヨーロッパ随一の帝国を築き上げたカール5世はゲントで西暦1500年に生まれました。カール5世の時代に神聖ローマ帝国の領土はドイツ、フランドル、ボヘミア、スペイン、南北アメリカ、フィリッピンにまで拡大しましたが、その領土を維持するための多額の戦費が必要になります。カール5世は、領土の中でも飛びぬけて富裕なフランドルからその費用を捻出しようとし、多額の上納金の献上を命じました。ゲントはこれに反発し、支払いを拒否しました。しかし、カール5世は生まれ故郷であってもこれを許さず、責任者を処罰したほか、特権の剥奪など厳しい弾圧を実施しました。
最盛期の人口はパリにも匹敵するほどの繁栄を誇ったゲントでしたが、その後、スヘルデ川が航行不可能になり、ゲントの産業は衰退を余儀なくされました。しかし、19世紀に自動紡績機の導入により繊維業が息を吹き返し、商業都市として再び発展をみせ、現在は東フランドル州の州都になってます。
花卉栽培や園芸農業も盛んで「花の都」と呼ばれ、5年に1度「ゲント・フロラリア」という花の祭典が開催されています。また、市内には約3万人の学生が通うゲント大学もあり、アカデミックな学園都市でもあります。
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