ルクレツィア・ボルジア

 1480年、イタリアルネサンス真っ盛りのローマで、ロドリーゴ・ボルジア枢機卿とその愛人ヴァノツァの間に生まれた。父ロドリーゴ枢機卿は、1492年に教皇アレクサンドル6世となり権力の頂点を極めるが、世俗的で好色な教皇として悪名高い人物である。そして、ルクレツィアの長兄は冷酷な政治家・軍人として知られるチェーザレ・ボルジアだった。少女時代からひときわ美しかったルクレツィアは、そんな父や兄たちから溺愛されて育ったが、政治の手段として3度の政略結婚を余儀なくされるなど数奇な運命をたどった。

 ルクレツィアの最初の結婚は13歳の時だった。ミラノ公イル・モーロの甥ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァに嫁いだが、情勢が変わりミラノとの同盟が無用となると、夫ジョバンニを性的不能として結婚の無効を主張した。すったもんだのあげく翌年離婚が成立するとルクレツィアは一時、修道院に身を寄せたが、そこでスペイン人従者ペドロの子を宿し、最初の出産をする。父と兄は激怒し、子の父ペドロはテベレ川から死体となって発見された。
 続いて、1498年にはナポリのアラゴン家の王太子アルフォンソと結婚させられた。夫との仲は睦ましかったが、チェーザレがフランス王ルイ12世と同盟すると、ナポリとの関係は差し障りとなったため、2年後に夫は暗殺された。
 そして、3度目の結婚相手は、フェラーラの城主アルフォンソ・デ・エステだった。今度の夫は豪快な性格の持ち主であったが無骨で、ルクレツェアとは全く逆の性質の持ち主だった。そして、夫の趣味は大砲作りと旅

ルクレツィア・ボルジア

であり、長くフェラーラを不在にした。そして舅であるフェラーラ公エルコーレと金銭の使い方などで対立した。続けて悲しい出来事が彼女を襲った。1503年に父アレクサンドロ6世が急死し、兄チェーザレも1507年に死去したのだった。
 その後、詩人のピエトロ・ベンボや義姉の夫マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガと浮名を流したことが知られているが、文芸の花開いた文化都市・フェラーラで無骨な夫の代わりルクレツィアは女城主としての役目を果たし、しだいに人々の信頼を集めていった。ルクレツィアは何度も夫アルフォンソの子を宿し、その度に難産を経験した。そして1519年、産褥熱のために他界。39歳の波乱の人生を終えた。

 世界史美女図鑑