★ディアーヌの 驚くべき美しさと 若さの秘訣は? |
★なぜ ディアーヌはアンリ2世の愛を 独占できたのか? アンリ2世は、フランスの中央集権化を進めたフランソワ1世の次男として生まれたが、その生い立ちは決して恵まれたものとはいえなかった。 母・王妃クロードは病弱で、アンリがまだ幼い頃に世を去っていた。ディアーヌは母クロードの女官であった時代もあり、王妃が亡くなってからは、王子アンリは母親のようにディアーヌを慕った。 しかし、アンリの不運はそれだけはなかった。その後、彼は7歳の頃に兄のフランソワと共に、スペインで4年間も人質として監禁生活を余儀なくされた。イタリアの覇権をめぐり神聖ローマ帝国と戦ったパヴィーアの戦いで、フランスは皇帝軍に敗北。国王フランソワ1世自身が捕虜になるという国家的ピンチに陥ったが、国王の釈放の代わりに2人の王子が人質に出されたのだった。 アンリが7歳の頃で、多感な少年時代に暗い部屋で制約の多い退屈な日々を送ることを余儀なくされ、故国フランスを懐かしむと同時に、優しかったディアーヌの面影が脳裏から離れなかった。 そして、無事釈放されて故国に戻ってからも、父王は自分と性格が似て明るく快活な兄の王太子フランソワを可愛がり、そのフランソワが急逝すると弟のシャルルに王の愛情は移った。アンリは常に孤独であり、自分を理解し庇護してくれる人を必要としていた。 そのような生い立ちから、母のように優しい愛情で包んでくれる美しいディアーヌに誰よりも安らぎを感じたのも無理もないことであった、、、。 |
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その秘密は、ディアーヌの毎日の日課にある。夏も冬も日の出前に起き、冷水を全身に浴びるのことを日課としていたとかというから驚き!そして、カップ1杯の自家製の澄んだスープのみの朝食をとり、その後2〜3時間、森や郊外への乗馬を楽しんだとか。午後は、総督夫人としての忙しい公務をこなした。 その規則正しい生活が、いつまでも若さを維持する秘訣だった。そして、それに加え、20歳近い年下の若い国王の愛がディアーヌをいつまでも光輝かせた。 残念ながら、なかなか真似することは難しそう、、! |
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フォンテーヌブロー派の画家たちに よってディアーヌをモデルとした多くの 絵画が描かれている。 特に、入浴シーンなど裸体が多い。 その女性のふくよかさに美を求めるのは、 イタリアルネサンスの影響を強く受けている。 |
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ディアーヌを取り巻く男性たち、、、 | ||||
フランソワ1世 (フランス国王) |
アンリ2世 (フランス国王) |
ルイ・ド・ブレゼ伯爵 (夫) ★ブレゼ家はフランス屈指の由緒ある貴族であり、富と権力を兼ね備えた人物だった。 また、彼の母シャルロットは、シャルル7世と寵姫アニェス・ソレルの間に生まれた庶出の王女だった。 しかし、彼自身は絶世の美女であった祖母の血筋は受けず、容姿には全く恵まれていなかったという。 50代半ばで結婚したディアーヌとの結婚生活は概ね円満で、フランソワーズとルイーズという2人の娘に恵まれた。72歳で死去。 |
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★アンリ2世の父で、ディアーヌの賛美者の一人であった。謀反の疑いで死罪になったディアーヌの父サン・ヴァリエ伯をディアーヌの懇願により助けたことから、フランソワ1世の寵愛も受けていたという説もある。 フランソワ1世の寵姫エタンプ公妃とは、その美貌を争ったライバル。 |
★1519年にフランソワ1世の次男として生まれ、1547年に28歳で即位。王妃カトリーヌとの間には10人の王子王女が誕生したが、生涯ディーアーヌ・ド・ポワティエのみを愛した。 1559年、娘エリザベートとスペインのフェリペ2世の結婚祝賀の馬上槍試合で右目を負傷。これが元で40歳で不運の死を迎えた。 |
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★40歳近く年上の夫との結婚生活は 本当に幸福だったのか? まだ若い10代のディアーヌの夫となったのは、父親以上にも年の離れた伯爵であり、「美女と野獣」のような取り合わせだった。本当にディアーヌは幸せだったのか!? 現代でいえば有名人夫妻の私生活をのぞくようなワイドショー的な話題だが、やはり興味をそそられる、、。 さて、いかに? 当時の貴族の娘は高貴な教養のある女性の下でマナーやしきたりを学ぶの慣習となっていた。ディアーヌは幼い頃に母親を失くしていたということもあり、シャルル8世の姉であるアンヌ・ド・ボージュの元で、教育を受けた。その影響もあり、ディアーヌの人生観は保守的で現実的であった。高貴な貴族の人間は、家名を守り、家の繁栄を図ることが一番の使命であり幸せであるという考え方を養っていた。ブレゼ伯爵と結婚することにより、ノルマンディーの大総督夫人として宮廷でも一目置かれる存在となり、自分に与えられた役割を果たすだけで十分満足だった。彼女は常に貞淑で賢い妻であり続けた。ブレゼ伯爵は狩の名手として知られており、乗馬の得意なディアーヌとは趣味も合い、夫婦として仲は睦まじかったようだ。 ブレゼ伯爵が1531年に死去した際には、ルーアンの寺院に大きな記念碑を建て、そこに心のこもった哀悼のメッセージを刻んでいる。そして、その後はずっと黒の喪服に身を包んで暮らしたという。 そして、伝統的な喪服の黒に白を取り入れたディアーヌの装いは、ディアーヌの気品のある美しさを一層際立たせ、宮廷で流行となったそうだ。 |
★ディアーヌの宿敵は フランソワ1世の寵妃エタンプ公妃 ディアーヌが未亡人になった頃、宮廷一の美女として注目を集めていたのが、フランソワ1世の公式寵姫である「エタンプ公妃」ことアンヌ・ド・ピスルーであった。フランソワ1世は皇帝カールによる捕虜から解放されたすぐ後、母ルイーズの侍女であるアンヌを見初めたという。青い目が魅惑的で鼻筋の通った美女であった。王はまず、彼女を形だけある貴族に嫁がせ、その仮の夫にエタンプと他の公領を与えた。アンヌは見せかけのだけの夫の地位によってエタンプ公妃と呼ばれるようになったのである。そして、国王の寵愛を一心に集めていた才気才気煥発な彼女は、なんと30人もいた自分の兄弟姉妹の出世を王にねだり、見事に成し遂げていた。 そんな並ぶ者なき栄誉を手にしていたエタンプ公妃のライバルだったのが、ディアーヌ・ド・ポワティエだった。競い合ったのは王の愛ではなく、「宮廷一の美女の座」。1531年パリで行なわれた騎馬試合にて人気投票が行なわれた際、「美女の中の美女」の称号を得たのは、国王の寵姫であるエタンプ公妃ではなく、ディアーヌ・ド・ポワティエであった。また、ディアーヌに一途な王太子アンリに対抗させるため、エタンプ公妃はアンリの弟シャルルに肩入れまでした。 両者の対立が終わりを迎えるのは、他ならぬフランソワ1世の死だった。エタンプ夫人は宮廷から逃げ出して報復を恐れていたが、新国王アンリ2世とディアーヌは必要以上の処罰は与えなかった。しかし、権力を失ったエタンプ夫人は、法律上の夫から訴訟を起こされて財産を取り上げられた上、ブルターニュで18年のみじめな監禁生活を送ったという。 |
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★気になる王妃カトリーヌとの関係は? 愛憎渦巻く確執があったのか,,,? アンリ2世の王妃は、フランス史上有名なカトリーヌ・ド・メディシスである。イタリアの名門メディチ家から嫁ぎ、3人の息子を王位につけ実権を握った女傑として知られる。 そんな女性が、自分よりずっと年上の女性に夫の愛を独占されて、黙っていたはずはない、、、! 王妃カトリーヌ・ドメディシス 長い間、表面上は波風は立たなかった。それは、アンリと結婚した時にカトリーヌはまだ15歳の少女であり、成熟した大人の女性であるディアーヌにはあらゆる面で叶わなかった。イタリアからやってきた少女はフランス宮廷の中ではよそ者であり、味方もなく弱い立場だった。そして、ディアーヌとカトリーヌは遠縁の親戚にあたったこともあり、カトリーヌはディアーヌの存在を認めて頼るしかなかったのである。 そして、2人の利害は一致していた。カトリーヌは結婚後10年間も子供が授からなかった。元々、アンリと貴族でないイタリアの商家の出身であるカトリーヌとの結婚には反対の声も多かった。アンリが兄の死により王太子となった後は、もっとふさわしい家柄から新しい嫁を迎えるべきという声も多くなった。その補者の名前まであがっていたという。そして、何年も子供が授からないとなるとますます離縁される可能性はさらに高くなる。焦ったカトリーヌはイタリアから怪しげな媚薬を取り寄せたり、まじないに頼ったりしたという。 一方のディアーヌは、カトリーヌより高貴な家柄から若くて美しい女性がアンリの新しい妻となるよりも、害のないカトリーヌの方が良いと考えた。アンリは1日の3分の1をディアーヌの部屋で過ごしたが、たまにはカトリーヌと一緒に夜を過ごすように勧めたのは他ならぬディアーヌであった。カトリーヌに子供ができなかったら困るのは彼女自身であったからであり、未成熟なカトリーヌに様々なアドバイスをした。その甲斐あって、カトリーヌは25歳で初めて子供を授かり、1544年に後のフランソワ2世となる男児を無事出産した。そして、カトリーヌは初めの苦労が嘘のように13年間に10人の子供を次々に出産した。 しかし、これでカトリーヌの宮廷での地位が向上したかといえば、そうではなかった。王太子アンリは王子誕生を喜んだものの、愛するディアーヌに王子誕生への貢献に対して報酬を与え、生まれた王子王女の養育の主導権もディアーヌが握った。カトリーヌは相変わらず蚊帳の外に置かれ、夫の愛も相変わらず寵妃ディアーヌに独占されたままであった。晴れて王妃の座についた後も、夫とその愛妾のために子供を産んでいたようなものだった。 そんなカトリーヌとディアーヌの立場が逆転するのは、アンリ2世の突然の死であった。王妃でありながら屈辱的な立場に長年甘んじてきたカトリーヌは、彼女なりに夫を愛し、その死を深く悲しんだ。しかし、ディアーヌに対する恨みはぬぐいきれず、夫アンリが贈ったシュノンソー城から追い出し、ショーモン城へと追いやった。そこから眠っていたカトリーヌの権力欲はとどめを知らなくなるのである。 |
ディアーヌゆかりの城 | ||
アネ城 | |||
ディアーヌがブレゼ伯爵と結婚生活を送った城。当時流行のルネサンス様式の優雅な城館で、狩と乗馬を愛したディアーヌにふさわしく城門の上には鹿と4匹の猟犬が飾られている。広々とした美しい庭園の向こうには森が広がっており、この緑に囲まれた思い出の館でディアーヌは晩年を静かに暮らした。 | |||
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フォンテーヌブロー宮殿 ※詳細クリック→ | |||
フランソワ1世の時代に新たに建築されたフランス初の本格的ルネサンス様式の宮殿。アンリ2世の時代にも新しい城館の建築や室内装飾が熱心に行なわれ、ディアーヌのも森に囲まれたこの宮殿がお気に入りだった。 | |||
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シュノンソー城 | |||
1547年に国王として即位したアンリ2世がディアーヌに贈った城で、当時、王家が所有していた城の中で最も美しい城だった。王妃カトリーヌは、夫アンリのディアーヌへの愛の証だったシュノンソーを夫の死後、取り上げた。その後、次々と持ち主が変わったことから「6人の女城主の城」と呼ばれる | |||
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フォンテーヌブロー派の画家たちは、ディアーヌをイメージした絵画を好んで描いた | |||
画家フランソワ・クーリエによる 浴室に座るディアーヌ |
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主な参考文献紹介 | |||
フランスを支配した美女― 公妃ディアヌ・ド・ポワチエ 著:桐生操 |
宮廷を彩った寵姫たち― 続・ヨーロッパ王室裏面史 著:マイケル・ケント公妃 マリー・クリスチーヌ |
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