オーストリア大公
フェルディナンド(弟)
イギリス王
ヘンリー8世
カール5世、当時24〜5歳。実際はもう少し若い、、?
和睦
クレメンス7世
×
フランソワ1世をめぐる対仏同盟
・スペイン
・ナポリ
・オーストリア
・イギリス
・ミラノ 
・ジェノバ
 etc,,,,
フランソワ1世
皇帝カール5世
ヘンリー8世
ハドリアヌス6世
ハドリアヌス6世急逝
パヴィーアの街
パヴィーアの街(↑)とパヴィーアの僧院(↓)。
ゴシック様式とルネサンス様式を合わせ持つ僧院は、ロンバルディア建築・装飾の傑作のひとつ
パヴィーア僧院

 油断していたフランス軍は大慌て! しかし、逃げまどう兵士たちを一喝し、敵の中に飛び込んでいったのは、他ならぬフランソワ1世、国王その人でした。そして、フランス軍も巻き返し、激しい戦いになりました。しかし、パヴィーアの要塞に立て篭もっていたレイヴァ将軍の軍勢が、時期を見計らって猛攻撃を開始すると、形成は皇帝軍に優位になりました。
 そして、皇帝軍による銃撃が一斉にフランスの騎馬を襲い、バタバタと倒れます。そして、ついに落馬した国王フランソワが捕らえられるという決定的な事態が発生! フランス軍は総崩れ! 敗走した兵は、命からがら何とか母国フランスまで逃げ帰ったものの、死者は1万人近くに及んだというから、激戦のほどがうかがえます。フランス軍は、国王自身が敵国の捕虜となったほか、有力な貴族や将軍が多数命を落とす屈辱的な敗北。フランスはまさに国家を揺るがす大きな危機に直面したのでした。果たして、フランソワの身はいかに、、!

パヴィーアの戦い
↑「パヴィーアの戦い」 作者不明、フランドル派。
北イタリア主要都市
どらまちっく・ひすとりー

 カール5世にイタリア進出を阻止されて悔しい思いをしたフランス王は、あきらめることなく、次のイタリア進出のチャンスを狙っていました。四方をハプスブルクの領土に囲まれたフランソワ1世は、勢力の維持と拡大に必死でした。再度のイタリアの危機に、皇帝カールは対仏同盟の必要性を教皇ハドリアヌス6世に訴えますが、温厚で事を荒立てたくない新教皇は、逆に皇帝とフランス王に休戦協定を結ぶことを提案します。しかし、どうにも状況が収まらないと見極めるや、対フランス同盟を結ぶことに同意。カール5世を中心にミラノ、ジェノバ、イギリスなど有力諸国の間で、教皇の名の下に同盟が成立しました。
 しかし、同盟が成立したのもつかの間、1523年9月、教皇ハドリアヌス6世が在任1年半にして急逝してしまいます。根っからの宗教人であった教皇は、ごたごたした内紛に神経をすり減らし、エネルギーを使い果たしてしまったのでした。そして、その後任として次の教皇に選ばれたのは、メディチ家出身のクレメンス7世でした。健全なキリスト教世界の復活を真に目指していた前任者とは違って、優柔不断で事なかれ主義を地でいったような教皇でした。
 
 こうした状況の中、フランスではフランソワ1世が着々と国中から兵を集め、イタリア侵略の準備を整えます。国内には慎重論もありましたが、この時、フランス王は31歳。若さに王者としての自信も備わり、意気揚々と野望に燃える王を抑えることはできませんでした。
 そして、1524年の冬、フランソワ1世は意気揚々と自ら大軍を率いて、険しいアルプスを越えてロンバルディア平原へと進軍。血気盛んな王の下、堂々と進軍するフランス軍に、イタリアの人々は恐れをなしました。
 そして、すっかり怖気づいてしまったのが、教皇クレメンス7世でした。宗教界のトップとして威厳を見せるどころか、和睦を願い出るという変わり身の早さ! フランソワ1世は戦わずして楽々とミラノを取り戻したのでした。そして、勢いに乗り、そのまま目標のナポリ征服を果たそうと、兵を進めました。そして、次に狙ったのが、ミラノ南方のパヴィーアでした。この街は、古くはランゴバルド王朝の都も置かれていた古都で、強固な城塞を保持していました。フランス軍はこの城塞を包囲し、持久戦で敵の食料が尽きるのを待ちました。このパヴィーアの城塞を守るスペインのレイヴァ将軍は、部下を叱咤激励しながら、皇帝軍の援軍が到着するのをひらすら待ち望みました。

 皇帝軍はドイツやスペイン、ナポリなどから兵が集まってきて、フランス軍の陣取るパヴィーアを逆包囲しました。皇帝軍の中には、元フランス軍の参謀だったブルボン元帥もいました。彼は、先のトゥルネの戦いでフランソワ1世に侮辱を受けて反旗を翻し、皇帝軍に鞍替えしてオーストリアの傭兵の指揮を執っていたのです。両軍の戦いは散発的な砲撃のみでだらだら続いていました。
 そして、皇帝軍には問題がありました。皇帝軍の兵士たちの主力は賃金をもらって働く傭兵や農民兵だったのですが、資金不足で傭兵に支払う給金が尽きそうだったのです。中央集権化が早くから進み、国王のために命をかけてでも働くという体制の整っていたフランス軍とは、軍隊の成り立ちが違い、賃金がもらえなかたり、食料が不足したりすると、傭兵たちの士気はたちまち下がり、軍は総崩れになる恐れもありました。そこで、皇帝軍は早期決着を図る必要があり、1524年2月24日の夜更けに奇襲作戦に打って出ました。
  

第7話  イタリア征服を再び狙ったフランソワ1世、
         激闘のパヴィーアの戦いで捕虜となる!

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