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フランソワ1世の母后
ルイーズ・ド・サヴォア
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どらまちっく・ひすとりー

第8話 皇帝カールと捕われのフランソワ、両者譲らず!
     そして、国家的危機に獅子奮迅の母后ルイーズ

 パヴィーアの戦いで捕虜となったフランソワ1世はまずナポリの要塞に送られ、副王ラヌワよりスペインのカール5世の元に急使が送られました。普段なら海路で行くところ、陸路フランス領内を通過して、この時代にあっては驚くべき早さの2週間で、パヴィーアでの勝利とフランス王捕獲の重大ニュースが届けられたのでした。
 そのニュースはまたたく間にヨーロッパ全土に伝わりましたが、フランスの人々にとってはにわかに信じられない激しい衝撃でした。フランスでは国王を中心とした中央集権化が進んでおり、それだけに人々は動揺し、自らの王が捕らわれの身になったことに危機感をつのらせました。なにせ王太子フランソワはまだ8歳、統治能力もなく、国家の分裂を招く恐れがありました。そして、老獪なイングランドのヘンリー8世やフランス王とその王母への報復に駆られるブルボン元帥など、フランスを取り巻く周囲も虎視眈々としており、その一寸の油断もできない状況でした。
 このフランスの国家的な危機にあって、一躍表舞台に登場したのが、フランソワ1世の母后ルイーズ・ド・サヴォアでした。この一大事を乗り切るために、持ち前の男勝りの勝気な性格と類まれな外交手腕を発揮。母后の獅子奮迅の働きで、フランスは一致団結し、内乱や謀反が起こることもなく急ピッチで国力を回復させたのでした。

  しかし、皇帝カール5世がフランスに突きつけた要求は、予想以上の過大なものでした。ルイ11世が不当に占領したとするブルゴーニュの割譲とミラノ・ナポリなどイタリアの領土や権益の完全放棄、そして多額な賠償金など、、、。母后ルイーズは冷静さを失わず、この要求を退けましたが、イタリア放棄とほどほどの賠償金で釈放されるものと考えていたフランソワは、この条件提示にショックを隠せませんでした。ブルゴーニュの放棄だけはどうしても避けたいフランソワは、自らが皇帝の姉エレオノーレと結婚し、ブルゴーニュを彼女へ与えることを提案したものの、皇帝カールはブルゴーニュの割譲だけは譲ろうとしませんでした。
 そして、失意のフランソワはスペインのマドリッドへと連行され、そこで過酷な幽閉生活を送ることを余儀なくされました。与えられたのはマドリッド近郊のアルカザールの地上33mの高さの小さな塔の簡素な部屋で、厳しい監視もつけられました。

 そうした間にも、母后ルイーズはフランスを包囲している教皇と皇帝を中心とした「神聖同盟」のどこかを切り崩せば状況の好転すると強気の姿勢で、対ハプスブルクの策略を着々と張り巡らしていました。まずイングランドのヘンリー8世が、ルイーズの誘いに乗ってきました。頑としてフランス侵略に応じない皇帝カールにしびれを切らし、フランスの金銭交渉に乗ってきたのです。
 パヴィーアの戦いの後、政局はまた刻々と変化していました。フランスの勢力に対抗するために同盟を結んでいた国々は、今度は皇帝カールのハプスブルク勢力が増大することを拒んだのでした。母后ルイーズはイングランドとの同盟に成功した後、ミラノをはじめイタリアの各都市との同盟も首尾よく成し遂げました。そして、さらに異教徒イスラムのオスマン・トルコにも使者を送り、時のスレイマン大帝に援助を求めるという凄腕でした。

 マドリットに幽閉されたフランソワ1世は、なんとか皇帝カールに直談判しようと試むものの、容易に受け入れられず、成すすべもない状況でした。しかし、そんな獄中のフランソワが瀕死の重症に陥り、危篤状態になってしまいます。大事な人質に死なれてしまっては、これまでの苦労も水の泡、、、。皇帝は「これは一大事」とばかりに、病の床のフランソワを見舞いました。
 なんとか死の危機を脱すると、フランソワの病状はみるみる回復し、再びカールとフランソワは交渉を始めました。しかし、国家を背負った両者の協議はなかなか収まらず、ようやく両者の歩み寄りがみられたのはパヴィーアでフランソワが捕らわれてから約1年たったころでした。
 粘りに粘ったフランス王はようやくブルゴーニュを諦める決意をし、1526年1月に「マドリッド条約」が成立しました。フランスはイタリアとブルゴーニュを放棄することになったほか、和解の印としてフランソワ1世が皇帝の姉エレオノーレと結婚し、自分の身代わりに2人の王子を人質として差し出すこととなりました。

 条約が結ばれてから2ヵ月後の1526年3月、スペインとフランスの国境を流れる河の中洲で、フランソワ1世は2人の王子と入れ代わるように釈放されました。しかし、フランソワ1世は聖書に手を置いて神に誓ったにもかかわらず、最初からこの約束を守るつもりはなかったのです。どこまでも、したたかで粘り強い王でした、、、。