アーヘンの大聖堂
アーヘンの大聖堂

アーヘンは、8世紀末にフランク王国のカール大帝が王宮をおき、この地にイングランドの学僧アルクィンを招いたため、カロリング朝ルネサンスの舞台ともなった。
 その後、歴代のドイツ王、神聖ローマ皇帝がアーヘン大聖堂で戴冠式を行なった由緒ある街であり、1520年に皇帝カール5世の戴冠式もここで挙行された。1530年にフェルディナンド1世がドイツ王としてここで戴冠したが、皇帝の戴冠としてはカール5世が最後となった。
カールの戴冠式
 ▲カールの戴冠式 
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ラ・コルーニャ
ラ・コルーニャ

スペイン半島の北西に位置し、大西洋に面する重要な港町としてローマ時代から港町として栄えてきた。現在は人口25万人のガリシア地方最大の都市。

〈左〉現在のラ・コルーニャ港の様子
〈下〉2世紀に建てられた世界最古の灯台
ラ・コルーニャの灯台
ヴォルムスの大聖堂
  ヴォルムス
神聖ローマ帝国時代にヴォルムスでは何度も重要な帝国議会が開催された。また。昔、ブルグント王国の首都が置かれていたことから、ブルグント族の英雄叙事詩「ニーベルンゲンの歌」の舞台になっている。
※写真は大聖堂
どらまちっく・ひすとりー

こうして、総力を結集して勝ち取った神聖ローマ帝国の君主の座でしたが、カールをまだ全面的に君主として認めていなかったスペインの人々は複雑でした。スペイン王が他国との争いのために、これ以上余計な出費をすることを危惧したのでした。他国で育った王子が側近を引き連れて国王としてやってきて、また別の国の君主になる。小国ならいざ知らず、新大陸にまで広がる領土を持つ大国・スペインの人々にとって、馬鹿にされたような気持ちになったのも仕方ないことでした。
 カールは戴冠式の挙行のためにドイツのアーヘンに赴かねばなりませんでしたが、国王のスペイン出国が明らかになると、一気に不穏な空気が広がったのです。まず、ファン・デ・パディーリャを首謀者とする反乱がトレドで起こり、その動きは一気にカステーリャ全域に広まりました。その勢いに危険を感じたカールこと国王カルロス1世は、急いでスペインを離れることになり、大西洋岸の港町ラ・コルーニャに向かったのです。王の逃亡を知った反乱軍はラ・コルーニャまで押し寄せましたが、間一髪、カールの船は出港できました。栄えある戴冠に向かうカールの出発は、このように国を追われるようなものだったのです。
 これらの反乱者たちはコムネーロスと呼ばれ、彼らの反乱「コムネーロスの乱」はこの後1年にわたって続くことになります。カルロス1世に事後を託されたアドリアン・フォン・ユトレヒトらは、この反乱の平定に大変な苦労を強いられたのでした。
 コムネーロスらは王権を覆そうとしたわけではなく、彼らの目指したのはブルゴーニュ人に奪われた自分たちの権利の回復でした。彼らはトルデシャリスの城館に女王フアナを訪ねてお墨付きをもらおうとしますが、女王は政治には全く感心を示さず、彼らの思惑は大きく外れました。この後、彼らの勢いは失われて、1521年4月のビリャラールの戦いで国王軍に敗北。首謀者たちは処刑されて、反乱は鎮圧されました。

 一方、スペインを離れた新皇帝カールは、1520年10月に帝国の司教都市アーヘンに無事到着し、カール大帝ゆかりの大聖堂で戴冠式を無事挙行しました。20歳のカールの頭に輝かしい神聖ローマ帝国の帝冠が載せられたのです。
 喜びに浸るのも束の間、新皇帝カールには最初の大きな仕事が待ち受けていました。ヴォルムスで開催される帝国会議でのマルティン・ルターとの対決です。ルターによる「95カ条の論題」の掲示から丸3年ですが、その間にルターは教皇レオ10世により破門の宣告を受けるなどで宗教改革の波紋はみるみる大きくなり、帝国内でのローマのカトリック教会への不満もふつふつと湧き上がっていました。帝国として、もはやこれを放置しておくわけにはいかない段階だったのです。
 こういう状況にあって、高い関心を集めたヴォルムスの帝国会議でしたが、人々は若い新皇帝がどういった態度を取るかにも注目していました。そして、カール自身も、神聖ローマ帝国の長として、カトリック国スペインの王として、旧来のカトリックを守護しようと確固たる信念でヴォルムスでの会議に向かったのでした。
 しかし、自説の撤回を要請されたルターは頑として受け付けず、「教会を仲介せずとも、聖書の言葉のみを拠り所とし、神を信仰することのみによって魂は救済される」という教義を毅然として訴えたのでした。ルターの意思は固く、両者の歩み寄りは不可能でした。討議の成り行きを見守っていたカールは、ルターに帝国内からの追放処分を言い渡すものの、彼をその場で釈放しました。その後、ルターは彼を擁護するザクセン選挙侯フリードリヒにかくまわれ、ヴァルトブルク城にて『新約聖書』のドイツ語訳などの宗教活動を続けました。
 
 ルターとの対決を終えた皇帝カールは、今後もカトリックの擁護者として強い姿勢で戦っていくことを強く胸に誓ったのですが、宗教的権威と世俗の欲望が混沌とした当時のキリスト教世界を束ねていくのは容易ではなく、今後も次々と困難が待ち受けているのでした、、、。

カール5世肖像

第5話. 危機一髪!「コムネーロスの反乱」からの脱出と
         ヴォルムスの帝国会議でのルターとの対決

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