ヴィッテンブルクのルターハウス
ヴィッテンブルクのルターハウス。ルターが1508年から住んでいたこの家で、「ルターの部屋」は、ほとんどオリジナルの状態のまま。ルターがヴォルムスの帝国会議で着用したと言われる修道士服なども展示されている。
贖宥状の販売
「贖宥状(免罪符)の販売」
ローマ教会は、サンピエトロ大聖堂の改修などの資金集めために、ドイツで贖宥状の販売を大々的に始めた。贖宥状を購入すれば、罪が許されるとのふれ込みだったが、福音書に則った信仰のみが神に救われる手立てだとして、ルターが『95ヵ条の論題』を掲げてこれを批判。ドイツを中心に大きな波紋を沸き起こした。ルターはこれにより教皇レオ10世から破門を受けていた。
どらまちっく・ひすとりー
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国内の混乱をなんとか収めると、また新たな事態が発生します。1519年の祖父マクシミリアンの崩御により、カールはドイツやオーストリアのハプスブルク家の所領を継承しますが、神聖ローマ帝国皇帝の座を引き継ぐためには、次の皇帝選挙で勝利する必要があったのです。当時の神聖ローマ帝国は国家としてのまとまりはないに近いものでしたが、ドイツを束ねる皇帝の名は、現在のヨーロッパ世界でのハプスブルクの地位を維持するに何よりも大事なものでした。

 これより少し前に、カールの新しい宰相に北イタリア出身のガッティナラという人物がつきました。このガッティナラは、元々は皇帝マクシミリアンに仕えた人文学者でしたが、高い国際感覚と広い知識を持ち合わせており、新しく国際社会に出ていく若きカールの政治顧問には最適の人物でした。『世界平和は最高の君主たる皇帝によって達成され、皇帝は教会とキリスト教の守護者であるべきだ』という中世盛期の皇帝理念をカールに植え付けたのもこのガッティナラでした。その理念を実現するためには何としてもこの皇帝選挙に勝利する必要があったのです。

 当時の神聖ローマ帝国皇帝は世襲制ではなく、7人の選挙侯の選挙によって決められていました。7人のうち3人は聖職者で占められ、マインツ・ケルン・トーリアの大司教でした。残る4人はザクセン公、ベーメン王、ブランデンブルク公、プァルツ宮中伯です。
 最大の対立候補はフランスのフランソワ1世で、すでに猛烈な買収工作を始めていました。フランス王にとっても、拡大するハプスブルクの勢力に対抗するためには、神聖ローマ帝国の君主の座が喉から手が出るほど欲しいものだったのです。
 カール側もブルゴーニュの叔母マルガレーテが中心になって、選挙戦の巻き返しを図ります。この時、ハプルブルク家の金銭面の最大の協力者となったのが、アウグスブルクの豪商フッガー家でした。こうして1519年6月にフランクフルトにて行なわれた皇帝選挙では、カールは7票すべてを獲得し、晴れて神聖ローマ帝国皇帝の座を射止めたのです。

 フランソワ1世が熱心な選挙活動をしたにもかかわらず1票も獲得できなかったのは、時の教皇レオ10世がフランス王を支持したことにも一因があったようでした。2年前の1917年、ルターがヴィッテンブルクにて「95カ条の論題」を提示。帝国内では旧教の腐敗に対する宗教改革の嵐が徐々に大きくなっているところでした。その腐敗の頂点にいるのが、レオ10世です。
 賄賂に弱い選挙侯たちも、そのレオ10世が推し、よそ者であるフランス王に投票する気は起きなかったようでした。そして、これ以後は皇帝選挙は白熱することなく、ハプスブルク家が安定的に皇帝の座を獲得していくことになります。
 
 無事に皇帝の座を射止めたカールでしたが、フランソワ1世との因縁の対決はこれから生涯に渡って続くことになり、またキリスト教の守護者として大きな宗教改革の波に飲み込まれていくことになるのです。

フランソワ1世 皇帝カールの生涯最大のライバル
フランス王
フランソワ1世





教皇レオ10世
「教皇レオ10世と枢機卿たち」 (ラファエロ画)

カール5世

カール5世 C

第4話 皇帝選挙でフランソワ1世に勝利して
         神聖ローマ帝国の君主の座を手に入れる