★16世紀前半 その他の主な出来事★
1502 イランで「サファヴィ朝」起こる
1507 ルターの「95カ条の論題」提示
1519 エラスムス 『愚神礼賛』発表
1519〜20 マゼランの世界周航
1520 オスマントルコでスレイマン1世即位
1521 コルテス、メキシコ征服
1526 アジアで「ムガール帝国」起こる
1534 イギリス国教会設立
1534 イエズス会設立
★その頃、日本では、、、★
1467年の応仁の乱によって始まった「戦国時代」の最中でした。不安定な下克上の時代で、一向一揆(1531)なども発生したほか、疫病も流行。
 戦乱の世もも末期になり、織田・豊臣・徳川が登場してくるのは、16世紀後半のことです。
フアナは夫の遺骸の火葬を許さず、両親の眠るグラナダまで運んだ。葬列は夜に進み、昼に休んで睡眠を取り、数年を費やした。フアナは度々、棺をあけて夫の亡き骸に話しかけ、愛撫したという。

★「女王フアナ」
スペインでは女王フアナの知名度は高く、映画化され、190万人動員の国民的大ヒットとなりました。 
 歴史の不運に翻弄されながらも、政略結婚で結ばれた夫を誰より激しく愛した一人の女性の真実の愛の物語です。
BOOK「女王フアナ」
BOOK「狂女王フアナ」 ★「狂女王フアナ」
イサベル女王の娘にして、神聖ローマ皇帝カール5世の母…。「狂女」と呼ばれ、「女王」でありながら46年間の幽閉生活を送ったフアナの歴史的真相をスペイン王家の歴史をたどりながら描いています。
セブンアンドワイ

 しかし、フェルディナンド王逝去後のスペインは大混乱に陥ります。カスティリアとアラゴンは1つの国として統一されたといっても、それはカトリック両王の婚姻があってのものでした。偉大な両王を失ってからは、様々な不満や確執が表面化し、社会の秩序が急速に乱れ始めます。亡きフェルディナンド王の領地アラゴンは、地元生まれの王子フェルディナンドを王に迎えたがり、カールの即位に反抗的でした。アラゴン人とカスティリア人が対立は深まり、今にも内乱にもなりそうな緊迫した状態でした。
 一刻も早くカールがスペインに赴き、君主として統治を始める必要がありましたが、まだ17歳のカールは住み慣れた故郷をなかなか離れようとしません。皇帝マクシミリアン1世にせっつかれて、ようやく重い腰を上げスペインへと旅立ったのは1519年9月のことでした。   
 スペインに到着したカールは、幼い頃別れたままだった母フアナに再会します。夫に死別した後は、さらに狂気がつのっていたフアナは、父フェルディナンド王によってトルデシャリスの城館に監禁されていました。
 狂女王といわれた母フアナは、その後38年間生き続けますが、カールは敬意を失うことなく忙しい合間を縫ってしばしば母を見舞ったそうです。そして、公文書には「カルロス1世」の名とともに「女王フアナ」の名前が添えられ、形式的には母フアナと共同統治という形を取ったのです。
 
そして、弟フェルディナンドとの対面も果たします。
これは、ハプスブルクの今後の命運にかかわる大きな顔合わせでした。これまで全く違った環境で成長し、性格も正反対の二人にもかかわらず、今後生涯にわたって協力しあい、ハプルブルクの黄金時代を築いていくことになるのです。
 せっかく兄弟として抱擁を交わし語り合った2人ですが、フェルディナンドの地元での人気がカールのスペイン統治に災いを及ぼす恐れがあるとして、フェルディナンドはカールと入れ替わりにブルゴーニュの叔母マルガレーテの元へ旅立って行くこととされました。ブルゴーニュ育ちのカールがスペインを統治することになり、スペイン育ちのフェルディナンドがブルゴーニュへと、全く皮肉な運命となりました。フェルディナンドは二度とスペインの地を踏むことなく、今後の活躍の場はもっぱらドイツやオーストリアとなるのです。

 そして1519年には、ハプルブルク家の基礎を築き上げた神聖ローマ帝国皇帝のマクシミリアン1世が崩御しました。いよいよ、カールは偉大な皇帝マクシミリアンの庇護なしに広大な領土を統治しなくてはならなくなったのでした。人もうらやむ広大な領土を獲得したカールでしたが、スペインでの統治は難題の山積みでした。
 まず、王となったカール自身、スペイン語を理解することができなかったので、側近が周囲に垣根を作り、なかなか地元のスペイン人と交わることができませんでした。快活な弟フェルディナンドと違って、カールは決して社交的とはいえず内省的なタイプだったので、なかなか地元のスペイン人にも受け入れてもらえなかったのです。
 当時のブルゴーニュの宮廷は、ヨーロッパでも第一級の洗練されたものでした。それは地元スペインの文化とは全く異質なものだったので、ネーデルランドから大挙してやってきたカールの側近と地元スペインの人たちの軋轢はさけられないものでした。きらびやかな衣装をまとい、華やかな祭典を催し、豪奢を競い金遣いの荒いブルゴーニュの人たちに対し、質実剛健なスペインの人たちは反感を覚えたのでした。
 それに加えて、ブルゴーニュ人はスペインの要職を独占し、利権を利用して金儲けに走り、地元スペインの宮廷人の目に余るようになりました。そして、ついに議会で衝突。なんとか新しい王カールへの忠誠を取りつけることができましたが、より反抗的で議会の力の強いアラゴンでは抵抗運動を抑えるのにかなりの苦労を強いられました。

若き日のカール5世
 細長い輪郭に、前に突き出た顎ー。カール5世の面差しは、代々ハプルブルク家に伝わる特徴をよく表していました。
 そして、カールには口を半開きにする癖があったため、スペインでは初め、愚鈍な人物だと思われていたそうです。
 また、カール5世は若い頃から大変な大食漢だったとか。また、冷たいビールをぐいぐい飲むのも大好きだったそうで、ちょっと通風が心配な食生活を送っていたようです、、。
まだ統治者としての貫禄は見られず、、。
 
カール5世A
第3話 ブルゴーニュから動乱のスペインへ
   、、、、母フアナ・弟フェルディナンドとの貴重な再会
どらまちっく・ひすとりー