オスマン帝国 スルタン

スレイマン1世

 (Suleyman I of the Ottoman Empire)

1494年11月 - 1566年9月
(在位1520年 -1566年)
スレイマン1世

トルコを中心に東地中海を支配したオスマン帝国の第10代のスルタンで、積極的な海外遠征と軍事・内政組織の整備により帝国の最盛期を築き、ヨーロッパの国際情勢にも大きな影響力を持った。
 トルコでは法典を編纂し帝国の制度を整備したことから「立法者(カーヌーニー Kanuni)」と呼ばれているが、ヨーロッパでは「壮麗者(the Magnificent)」と称される。日本では、その偉大さから「スレイマン大帝」と呼ばれることが多い。       
                                                               

 マムルーク朝を滅ぼしてシリアやエジプトを初めてオスマン帝国の領土とした父セリム1世の後を継ぎ、1420年にスレイマンは26歳で広大な領土を持つ帝国の支配者となった。その後、半世紀に近い長い治世の間に13回も親征を行ない、ペルシアからヨーロッパ、アフリカ大陸に及ぶ広大な領土を実現させ、「スレイマン大帝」と呼ばれる偉大なる君主として君臨した。
 まず、即位の翌年1521年にハンガリー進出の拠点となるベオグラードを攻略。その後1526年にはモハーチの戦いでハンガリー王ラヲシュ2世を破り、ハンガリー中央部を平定。ラヨシュの戦死により断絶したハンガリー王位は、ラヲシュの姉アンナと結婚していたハプスブルク家のフェルディナンド(神聖ローマ帝国皇帝カール5世の弟)が継承することとなったが、スレイマンはオスマン帝国に服属したトランシルヴァニア公サポヤイ・ヤーノシュを推し、ハプスブルク家と対立した。1529年に第一次ウィーン包囲を敢行。寒さの厳しいウィーンでの冬の戦いを避けるため17日間で包囲の中止を余儀なくされたが、強力なオスマン軍がヨーロッパの奥深くを脅かしたことはハプスブルクだけでなくヨーロッパのキリスト教国を震撼させた。
 また、1522年の2回目の親征ではイスラム船に対し海賊活動を行なっていた聖ヨハネ騎士団をロードス島から駆逐し、東地中海の制海権を確保するなど、治世開始早々から活発な外征を行なった。

 そして1534年から36年にかけては、イスラム教国ながらシーア派のイランのサファヴィー朝と戦ってバグダートを占領し、イラクとアゼルバイジャンの大半を支配下に置いた。領土の東への拡大は陸路の交易路の拡大と安定につながり、オスマン帝国の首都イスタンブールには豊富な物資が供給されるようになり、国際色豊かな文化の繁栄にもつながった。
 スレイマン時代の首都イスタンブールの人口は40万人ほどにもなったとされているが、当時のヨーロッパの主要都市であったパリが20万人前後、ローマが10万人ほどであったことを考えると、オスマン帝国の繁栄ぶりがよくわかる。

 また、元々はそれほど強力でなかった海軍の育成にも力を注ぎ、1533年にアルジェを本拠地とする水軍の頭目であるハイレディン・バルバロスが帰順すると、彼を大提督(カブタン・パシャ)に抜擢し、その実力を最大限に利用した。これによりオスマン帝国の海軍は格段に強力になり、1538年のプレヴェザの海戦ではスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇などの連合艦隊を撃破し、地中海の全域の制海権を確固たるものとした。

 最盛期を迎えたスレイマン1世のオスマン帝国は、イスラム世界だけでなく、ヨーロッパの政局にも大きな影響を与えた。フランスのフランソワ1世はスペイン王位を兼ねる神聖ローマ帝国のハプスブルク家に対抗するため異教徒のオスマントルコと積極的に同盟したが、フランスを通じて間接的にハプスブルク家と対立していたドイツのルター派を援助したともいわれ、フランソワ1世やその息子アンリ2世がルター派諸侯に送った資金の大部分は、オスマン帝国から供出されていたとされる。
  また、スレイマン1世の治世では、広大な領土を統治するための中央集権的な様々な行政制度が整備された。軍事面でもイェニチェリなどの精強な組織が整えられたが、こうした急速な軍事の構造変化は帝国の軍事的衰退の原因にもなった。また、それ以降は傑出した君主が現れなかったこともってスルタン自らが政務を行うことも少なくなり、実権は大宰相の手へと移っていった。そして、スレイマン1世の治世はオスマン帝国の栄光の時代として記憶され、スレイマン大帝は偉大なる君主として後々の模範とされた。
 
 また、スレイマン時代には軍事面だけでなく、文化でも成熟期を迎えた。スレイマン自身も哲学などの学問や芸術を好み、「ムヒッビー(恋する者)」の筆名で詩作を行なった。 また、建築の分野では建築家ミマール・スィナンを帝室造営局長に登用。イスタンブールのスレイマニエ・モスクのほか数多くの優れた建築物をつくらせた。スィナンはスレイマン1世の孫のムラト1世の時代まで活躍し、オスマン建築を芸術の域まで高めた。

 その一方で、長きに渡った治世の後半には政争が相次ぎ、絶対的な権力を持つスルタンの寵を競うハーレムの女たちの争いが激しくなった。オスマン朝の歴代スルタンは正式な妃を持たず、スルタンの寵愛を受けたハーレムの女奴隷産んだ子供の一人が後継者となっていた。 しかし、スレイマンは寵姫ヒュッレム(ロクセラーナ)を溺愛し、1531年に正式な妃とした。
 しかし、こうした異例な待遇は周囲からの反発を受け宮廷内の混乱を招き、英明な第一皇子のムスタファ(母:ギュルバハル)を擁護する宰相のイブラヒムがスレイマンの命により毒殺されるなど、後継者を争って長い間様々な陰謀が繰り広げられた。その当時のオスマン朝では、新しいスルタンが即位するとそれ以外の兄弟は同腹であっても処刑される慣習があったため、後継者争いは生死を賭けた戦いであった。1553年にはムスタファが反逆罪で処刑され、ヒュッレムが1558年に没すると、ヒュッレムの息子である皇子セリムとバヤズィトによって激しい後継者争いが行われて内戦状態になり、大帝と呼ばれたスレイマンも大いに胸を痛めた。その結果、凡庸と言われたセリムが勝利し、バヤズィトは亡命先のイランで処刑された。

  スレイマン1世は、1566年にハンガリーへ13回目の親征中に71歳で没した。在位は46年だった。その遺骸はイスタンブールに運ばれて、スィナンに建造させたスレイマニエ・モスクの墓地に葬られた。その後は、兄弟同士の争いを唯一生き残ったセリム2世がスルタンとして即位した。

スレイマニエ・モスク

スレイマン大帝は栄光のシンボルとしてミマール・スィナンに壮大なモスクの建築を命じ、8年かけて1557年にスレイマニエ・モスクが完成した。この建築にはスレイマンは並々ならぬ熱意を示し、スルタン自ら石材を運んだり作業に加わることもあったという。

15世紀後半のロードス島15世紀後半のロードス島

ハイレディン・バルバロス
→オスマン帝国海軍での大提督として活躍したハイレディン・バルバロス
「バルバロスとは、「赤髯」または「バルバリアの王の意」。
ミマール・スィナン←スレイマンが重用した建築家のミマール・スィナン。ミマールとは「建築家」の意味。生涯で477以上の優れた建築物を残し、トルコ史上に残る傑出した建築家。
横顔のスレイマン1世スレイマン1世はオスマン帝国の歴代スルタンの中でも美男で知られている。



スレイマン1世年表
1494 セリム1世の子として誕生
1516 ギュルバハルとの間に皇子ムスタファ誕生
1520 スレイマン1世として即位
1521 ベオグラードを占領
1522 ロードス島から聖ヨハネ騎士団を駆逐
1524 ヒュッレムとの間にセリム2世誕生
1526 モハーチの戦いで勝利しハンガリーに進出
1529 第一次ウィーン包囲
1531 寵姫ヒュッレムを正式な妃とする
1538 プレヴェザの海戦で勝利
1553 第一皇子ムスタファを反逆罪で処刑
1558 愛妃ヒュッレムが死去
1561 反乱を起こした皇子バヤズィトを処刑
1566 スレイマン1世死去

愛妃ヒュッレム
ロクセラーナこと
愛妃ヒュッレム


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 スレイマン1世の後宮(ハーレム)で最初にスルタンの寵愛を得ていたのは、ギュルバハルの名で知られたマヒデヴランで、王子ムスタファを産んでいた。
 しかし、スレイマンは29歳の頃からウクライナ出身の女奴隷ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)を寵愛するようになった。ヒュッレムは3男1女を産み、スレイマンの寵愛を独占。そして、極めて異例なことにスレイマンはヒュッレムをハーレムの奴隷の身分から正式な妃に迎え、盛大な婚礼の祝宴も催した。
 スルタンの正式な妻の座を射止めたヒュッレムは、さらに自分の生んだ息子をスルタンの後継者にすることを望んだ。骨肉の後継者争いの末、スレイマン1世の死後、スルタンの座についたのは、ヒュッレムの息子一人セリム2世だった。そして、これ以後、オスマン朝の宮廷ではハーレムの女性が権力を巡って裏で争うようになった

オスマン帝国の版図
薄緑の部分が父・セリム1世の獲得した領土で、深緑がスレイマン1世の獲得した領土。次のセリム2世の時代にオスマン帝国は最大版図となった。 ※クリックで拡大