オスマン帝国 スルタン (Suleyman I of the Ottoman Empire) 1494年11月 - 1566年9月 (在位1520年 -1566年) |
トルコを中心に東地中海を支配したオスマン帝国の第10代のスルタンで、積極的な海外遠征と軍事・内政組織の整備により帝国の最盛期を築き、ヨーロッパの国際情勢にも大きな影響力を持った。 |
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マムルーク朝を滅ぼしてシリアやエジプトを初めてオスマン帝国の領土とした父セリム1世の後を継ぎ、1420年にスレイマンは26歳で広大な領土を持つ帝国の支配者となった。その後、半世紀に近い長い治世の間に13回も親征を行ない、ペルシアからヨーロッパ、アフリカ大陸に及ぶ広大な領土を実現させ、「スレイマン大帝」と呼ばれる偉大なる君主として君臨した。 そして1534年から36年にかけては、イスラム教国ながらシーア派のイランのサファヴィー朝と戦ってバグダートを占領し、イラクとアゼルバイジャンの大半を支配下に置いた。領土の東への拡大は陸路の交易路の拡大と安定につながり、オスマン帝国の首都イスタンブールには豊富な物資が供給されるようになり、国際色豊かな文化の繁栄にもつながった。 また、元々はそれほど強力でなかった海軍の育成にも力を注ぎ、1533年にアルジェを本拠地とする水軍の頭目であるハイレディン・バルバロスが帰順すると、彼を大提督(カブタン・パシャ)に抜擢し、その実力を最大限に利用した。これによりオスマン帝国の海軍は格段に強力になり、1538年のプレヴェザの海戦ではスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇などの連合艦隊を撃破し、地中海の全域の制海権を確固たるものとした。 最盛期を迎えたスレイマン1世のオスマン帝国は、イスラム世界だけでなく、ヨーロッパの政局にも大きな影響を与えた。フランスのフランソワ1世はスペイン王位を兼ねる神聖ローマ帝国のハプスブルク家に対抗するため異教徒のオスマントルコと積極的に同盟したが、フランスを通じて間接的にハプスブルク家と対立していたドイツのルター派を援助したともいわれ、フランソワ1世やその息子アンリ2世がルター派諸侯に送った資金の大部分は、オスマン帝国から供出されていたとされる。 |
スレイマン大帝は栄光のシンボルとしてミマール・スィナンに壮大なモスクの建築を命じ、8年かけて1557年にスレイマニエ・モスクが完成した。この建築にはスレイマンは並々ならぬ熱意を示し、スルタン自ら石材を運んだり作業に加わることもあったという。 |
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15世紀後半のロードス島 | |||||
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→オスマン帝国海軍での大提督として活躍したハイレディン・バルバロス。 「バルバロスとは、「赤髯」または「バルバリアの王の意」。 |
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←スレイマンが重用した建築家のミマール・スィナン。ミマールとは「建築家」の意味。生涯で477以上の優れた建築物を残し、トルコ史上に残る傑出した建築家。 |
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スレイマン1世はオスマン帝国の歴代スルタンの中でも美男で知られている。 スレイマン1世年表 |
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1494 セリム1世の子として誕生 1516 ギュルバハルとの間に皇子ムスタファ誕生 1520 スレイマン1世として即位 1521 ベオグラードを占領 1522 ロードス島から聖ヨハネ騎士団を駆逐 1524 ヒュッレムとの間にセリム2世誕生 1526 モハーチの戦いで勝利しハンガリーに進出 1529 第一次ウィーン包囲 1531 寵姫ヒュッレムを正式な妃とする 1538 プレヴェザの海戦で勝利 1553 第一皇子ムスタファを反逆罪で処刑 1558 愛妃ヒュッレムが死去 1561 反乱を起こした皇子バヤズィトを処刑 1566 スレイマン1世死去 |
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ロクセラーナこと 愛妃ヒュッレム 詳細ページ |
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