今やヨーロッパ諸国に恐れられる大帝国になっていたオスマンは、13世紀末にアナトリア西北部に出現し、14世紀後半にはアナトリアの征服を進めつつ、バルカン半島に進出しました。1453年には征服王と呼ばれるメフメト2世がビザンツ帝国の都・コンスタンティノープルを征服し、新たにオスマンの帝都としました。それが、今日まで続くイスタンブールです。メフメト2世はすぐに今のイスタンブール大学付近に宮殿を建てたものの、数年後にボスフォラス海峡とマルマラ湾を半島の先に新宮殿を建てました。これが今日の「トプカプ宮殿」です。スレイマンの時代は、スルタンは新宮殿で政務を行ない、旧宮殿を生活の場としていたようで、ハーレムも旧宮殿にありました。
ハーレムの一員となったばかりのヒュッレムには、美しく装飾された小部屋が与えられました。宮廷の実力者イブラヒムのお墨付きがあり、すでにひととおりの訓練がすんでいたヒュッレムは特別待遇を得ていたのですが、これは異例なことでした。
ハーレムに入ったばかりの娘は「アジャミ」(新参者)と呼ばれ、10人ぐらいの相部屋に入れられて宮廷用語や作法の教育を受けるのが普通でした。そして、一人前になったアジャミは「ジェリエ」と呼ばれるようになりますが、数百人いたと言われるハーレムの多くの女たちの中から出世できるのは、ほんの数人でした。スルタンに気に入れられ、一夜を共にすると初めて個室を与えられるのですが、そうした女性は「部屋を持つ者」という意味の「オダリスク」(オダルック)と呼ばれました。最初からオダリスク待遇だったヒュッレムには、ハーレムでの成功が半分約束されていたともいえました。
また、多くの女たちの存在するハーレムには序列がありました。すべてはスルタンの寵愛によるもので、オダリスクの中で特にスルタンの寵愛を受けたものは「お気に入り」という意味の「ギョズデ」、または「幸運者」という意味の「イクバル」と呼ばれました。そして、スルタンの子供を産んだ女性は、「カドゥン・エフェンディ」と呼ばれてさらに尊ばれ、広い部屋が与えられて専用の召使や馬車が使用できるなど最上等の待遇を受けました。さらに、その中でもスルタンの長男を産んだ女性は「バシュ・カドゥン・エフェンディ」(第一夫人)と呼ばれ、スルタンの生母である皇太后に次ぐ地位を得ることができました。
当時、スレイマンのハーレムでこのカドゥン・エフェンディの地位にあったのは、スルタンの第1皇子ムスタファを産んだ「マヒデヴラン」という名の女性で、「春の薔薇」という意味の「ギュルバハル」という名をスルタンから与えられるほどの美貌の持ち主でした。
すでにハーレムの女たちの頂点に立っているマヒデヴランは、最終的にヒュッレムが目指すべき存在でしたが、当面の目標はイブラヒムの期待通りに無事にスルタンのお気に入られ、イクバルの仲間入りをすることでした。
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