「フランス絵画の19世紀」

横浜・みなとみらいにある横浜美術館で開催された「フランス絵画の19世紀」という美術展に行ってきました。横浜は近くて遠いので、なかなか足を延ばす機会も少なく、横浜美術館も初めてでした。
 19世紀のフランスというと後半の印象派のイメージが強いですが、今回の展覧会は、サブタイトルに「美をめぐる100年のドラマ」とあるように、アカデミスム絵画を中心にロマン派から印象派まで流れを追って順に展示されています。展示作品は、フランスだけでなく、アメリカ、スペイン、日本の約40美術館から集めた選りすぐりの77点。各時代の特徴を象徴するような作品が並び、19世紀のフランスの美術界を見回しているようでした。ご紹介したい作品が数多くありましたがので、Part.1、Part.2に分けてご紹介したいと思います。

 横浜美術館はみなとみらい駅から歩いて5分ほどと大変便利な立地なのですが、駅の反対側にあるパシフィコ横浜では「海のエジプト展」を開催中でした。私も両方鑑賞したのですが、まったく違ったコンセプトの歴史の鑑賞をするのもなかなか乙なものでした。

横浜美術館
第1章 アカデミズムの基盤 ―新古典主義の確立

 ドロリングがローマ賞のコンクールの課題として提出し、首席を獲得した出世作。
 描かれているのはホメロスの叙事詩『イリアス』の挿話のトロイア戦争のワンシーン。画面の左側にいるのはギリシア側の総大将アガメムノンで、その右側に反対側を向いて立っているのは部下のアキレウス。アキレウスが内縁の妻ブリセイスをアガメムノン奪われた怒りを爆発させようとしたのを、女神アテナ(戦いと叡智の神)に止められたシーンです。

 全体は落ち着いた色調ながら、艶やかな色使いと流麗な筆致で華やかな印象。また、荒々しい題材ながら、細部まで描きこまれた緻密な描写で、格調高く繊細なイメージも持ち合わせています。なんともいえない迫力があり、イキイキとしたリアリティに脱帽 !
 まさにドロリングの力量を示す作品といえます。題材といい、描き方といい、新古典主義らしい作品といえます。


「アキレウスの怒り」
ミシェル=マルタン・ドロリング
1810年
「アキレウスの怒り」


★新古典主義

 「新古典主義」とは、18世紀のポンペイをはじめとした古代遺跡発掘などの影響を受けて、18世紀末からフランスで見られた古代ギリシア・ローマへの回帰運動のことです。あまりに甘美で享楽的なそれまでのロココ芸術への反動もあり、普遍的な理想美の追求と写実性を重視した新しい様式が急速に浸透しました。

 新古典主義の発達には時代的な背景も大きく関係しています。フランス革命を経て、英雄ナポレオンによる帝政期にあったフランスでは、古典の英雄主義的な主題はさらに好まれるようになったのです。ナポレオンの戴冠式を描いたダヴィッドの作品は、その象徴のような作品です。
 新古典主義はフランスのアカデミーの主流になり、歴史画を第一とし、ギリシアやローマの神話や古典に題材をとった作品が数多く描かれました。 19世紀初頭は、ナポレオンの文化政策を背景に、宮廷首席画家ダヴィッドが華々しく活躍。ナポレオン皇帝失脚の後も、ダヴィッドから弟子のグロ、ジロテ、ジェラールへと継承され、新古典主義の巨匠とされるアングルへと伝統的な絵画手法が受け継がれていきました。


★アカデミスムとは?
 当時のフランスの美術界は、教育機関である「パリ国立美術学校」と1803年に設立された「ローマ賞コンクール」、そして展覧会組織である「サロン」から成り立つ「美術アカデミー制度」のもとに形成されていました。このような仕組み全体を「アカデミスム」と呼びます。
 当時、画家として名を成そうとする者は、国立美術学校で修業を積み、その集大成として「ローマ賞」と呼ばれるコンクールに参加しました。そこで入賞すると、ローマ留学という画家として大きなチャンスを得ることができたのです。
 今回の展示にもドロリングの「アキレウスの怒り」をはじめローマ賞の1等、2等の受賞作品が何点か出品されていたのですが、アカデミーで認められることが画家としての成功に大きく影響していたことを物語っているようでした。


「洪水の情景」


「洪水の情景」
アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン

1791年作のレプリカ

 洪水の夜に水に飲み込まれそうになって驚愕している家族を描いた作品。岩の上の男性は自分の父親と思われる男性を背負い、伸ばした右手は妻と思われる女性をつかんでいる。女性には2人の子供がぶらさがり、その重みで男性の手はちぎれそう。困難の中で選択を迫られ、どうにも身動きの取れない男性の姿を描いています。

 展示されたこの作品はルーブル所蔵の作品の縮小版だそうですが、生の絵はなかなか迫力満点でした。拡大してみると登場人物の表情などもよくわかり、この絵の持つ意味などももっと伝わるかもしれません。
 ※クリックで拡大




「パフォスのヴィーナス」
ドミニク・アングル (弟子との共作)
1852年頃


「パフォスのヴィーナス」

 テレビの美術番組「美の巨人たち」でも取り上げられ この展覧会のイメージキャラクター?の一人にもなっている「パフォスのヴィーナス」。会場に入って一番最初にお目にかかったのが、この謎めいたヴィーナスでした。
  絵の舞台は、ヴィーナスが貝殻に乗って陸に上がったと伝えられる聖地キプロス島のパフォス。月桂樹の深い緑を背景に、白く優美な裸身をさらすヴィーナスのきめ細やかな肌は、アングルの代表作「オダリスク」を彷彿とさせます。しかし、この絵の女性は従来のヴィーナスとは違った現代的な面ざしをしていて、視線をこちらに投げかけています。
 この絵のモデルは当時のパリの社交界で美貌が評判だったバレイ夫人だと言われています。アングルは高貴な人々の肖像画を描いて人気を得てましたが、上流貴族バレイ家の注文を得て夫人の肖像画を描き始めました。しかし、肖像画が完成する前にバレイ一家は突然パリを去ってしまいました。(ナポレオン3世の色目を避けるためだという説もあるとか、、) それで、アングルは注文主がいなくなった制作途中の絵をヴィーナスの絵に描き変えたと思われています。腕を組んだ肖像画から果物を手渡すヴィーナスの絵に変換していった証拠に薄っすらと組んだ手の跡が残っています。
 アングルはこの絵で現実と神話の融合を試みたのですが、それまでヌードといえばヴィーナスか天使と相場が決まっていたので、高貴な人物の顔を持つ女性のヌードはスキャンダル的な要素がありました。そのせいかどうか、アングルはこの絵を生涯手元に置き、誰にも見せることがなかったそうです。
 また、アングルは従来の古典的な手法の脱却を図り、この絵の中で新しい構図に挑戦しています。背中と胸の両方を描いているのですが、これは実際にはありえない構図でした。アングルの時代には写真が台頭してきて、それまでの肖像画の地位は大きく失墜してました。そこで、アングルはありのままの表現ではなく、美をより強調する方法を模索していたのでした。絵の美しさ以上に様々な意味を持つ1枚の作品でした。


第2章 アカデミズム第一世代とロマン主義の台頭


 1820年から30年頃には、普遍的な理想美を追求する新古典主義に対して、何よりも個人の感性を重視したロマン主義が台頭してきました。色彩を重んじ、力動感あふれる表現で、文学・東方世界・同時代の事件など、主題の幅も大きく広げ、美の多様性を追求していきました。
 その代表格がドラクロワで、伝統的な新古典主義の様式を守ろうとするアングルとの確執を経て、新たなフランス絵画の流れを作り出していきました。

 そして、このロマン主義を適度に取り入れながら、新古典主義の様式を変化させていった中庸派(ジュスト・ミリュー)と呼ばれる画家たちが登場してきます。アカデミスム第一世代とされる彼らは、歴史画を親しみやすく解釈し、現実感覚に富んだ手法で歴史的風俗画ともいうべき特有の絵画様式を生み出していきました。
 歴史の一場面をこっそり覗いて見せてくれるような彼らの作品は、遠い昔の出来事への想像力を掻き立て、好奇心を刺激してくれます。歴史好きにとっては芸術鑑賞の枠を越えた魅力あるものです。


「パリ市庁舎に向かうために     
 パレ・ロワイヤルに向かう
  オルレアン公、1930年7月31日」

エミール=ジャン=オルラース・ヴェルネ
1832年

ヴェルネはオルレアン公時代からルイ・フィリップの庇護を受けていましたが、ベルサイユの新歴史博物館のための公式注文を受けて制作した作品。1830年の7月革命で、国王に推挙されたオルレアン公ルイ・フィリップがパレ・ロワイヤルに向かうシーン。



「アブラハムに追放されるハガル」
   エミール=ジャン=オルラース・ヴェルネ
1837年

「アブラハムに追放されるハガル」

聖書の「創世記」のワンシーンが描いた作品。アブラハムの妻サラに子供ができず、女奴隷のハガルを妾にして、イシュマルを儲けました。しかし、その後、妻のサラにも息子イサクが誕生し、状況は一変。アブラハムは非情にもハガルと息子に追放を命じたのですが、この作品はそのシーンをリアルに描いています。
 アブラハムの厳しい表情やハガルのなんともいえない悲哀に満ちた表情はあまりにも切ない、、、。人物だけではなく、衣装や風景なども当時の雰囲気が十分伝わり、宗教画の枠を越えた素晴らしい芸術作品といえます。

 

「クロムウェルとチェールズ1世」


「クロムウェルとチャールズ1世」
   ポール・ドラロッシュ
1831年

イギリスの清教徒革命を主題にした歴史画で、斬首後にホワイトホール宮殿の部屋に運ばれた国王チャールズ1世の亡骸を、護国卿クロムウェルが棺の蓋を持ち上げてじっと見詰めるシーン。
 ドラロッシュは歴史画を得意としたロマン派の画家で、他にも「ジェーン・グレイの処刑」や「アルプス越えのナポレオン」など歴史の1コマを描いた名作を数多く残しています。



「ウジェーヌ・ウディ夫人」
   イボリット・フランドラン
1840年

「ウジェーヌ・ウディ夫人」

 アングルを師とし、新古典主義の画家として活躍したフランドラン。ルーブル美術館に「海辺に座る裸体の青年」や素描「十字架のキリスト」などが収蔵されていますが、この展覧会に出品されていたもう一つの作品「トロイアへ向かうギリシャ軍の動きを見張るプリアモスの息子ポリテス」はその系統の作品です。
 ここに紹介した作品は、それらとは一味違った女性の肖像画で、彫刻師で友人のウジェーヌ・ウディの夫人を描いた作品です。構図やポーズはシンプルにもかかわらず、一直線にこちらに視線を向ける女性の存在にまるで引きこまれるようなただならぬパワーを持った作品でした。


「預言者エレミヤ」


「預言者エレミヤ」

アンリ・レーマン
1842年

エレミヤは旧約聖書の『エレミヤ書』に登場する古代ユダヤの預言者。神が「エルサレムが廃墟になる」という預言を、若者に書き留めさせているシーンです。
 228.5×294cmの堂々たる大画面に描かれ、迫力のある作品でした。宗教画を独自の感性で描いたロマン派ならではのダイナミックさを感じる作品です。


「十二使徒の伝道の旅立ち」


「十二使徒の伝道の旅立ち」

   シャルル・グレール
1845年

グレールはスイス人で、自分自身は従来のサロン好みのアカデミックな絵を描く画家でした。しかし、彼がドラロッシュから引き継いだアトリエでは塾生たちには独自の絵を描くように奨め、アトリエには自由闊達な雰囲気がありました。これは当時の指導者には珍しいことで、ルノアール、シスレーら後の印象派の画家たちがここから数多く育っていきました。グレールは報酬を受け取らず、謙虚で寛容な師匠として弟子たちに大変慕われていたそうです。


「パリ国立美術学校の半円形講堂壁画のための原画」


「パリ国立美術学校の
 半円形講堂壁画のための原画」

    ポール・ドラロッシュ
1836年作

  ロマン派の画家として活躍したドラロッシュは、1832年からフランス国立美術学校の教授として教鞭を執り、講堂壁画の制作も手掛けました。実際の壁画は高さ3.9m、幅24mもある大きなもので、ドラロッシュは5年もかかって制作しました。ミケランジェロ、ティツィアーノ、ルーベンス、レンブラントなど、巨匠と呼ばれる画家たちが自然な姿で集う姿が描かれています。


※PART2へ