横浜・みなとみらいにある横浜美術館で開催された「フランス絵画の19世紀」という美術展に行ってきました。横浜は近くて遠いので、なかなか足を延ばす機会も少なく、横浜美術館も初めてでした。 |
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第1章 アカデミズムの基盤 ―新古典主義の確立 | |||||
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ドロリングがローマ賞のコンクールの課題として提出し、首席を獲得した出世作。 |
▼ 「アキレウスの怒り」 ミシェル=マルタン・ドロリング 1810年 |
★新古典主義 「新古典主義」とは、18世紀のポンペイをはじめとした古代遺跡発掘などの影響を受けて、18世紀末からフランスで見られた古代ギリシア・ローマへの回帰運動のことです。あまりに甘美で享楽的なそれまでのロココ芸術への反動もあり、普遍的な理想美の追求と写実性を重視した新しい様式が急速に浸透しました。 ★アカデミスムとは? |
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洪水の夜に水に飲み込まれそうになって驚愕している家族を描いた作品。岩の上の男性は自分の父親と思われる男性を背負い、伸ばした右手は妻と思われる女性をつかんでいる。女性には2人の子供がぶらさがり、その重みで男性の手はちぎれそう。困難の中で選択を迫られ、どうにも身動きの取れない男性の姿を描いています。 |
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テレビの美術番組「美の巨人たち」でも取り上げられ この展覧会のイメージキャラクター?の一人にもなっている「パフォスのヴィーナス」。会場に入って一番最初にお目にかかったのが、この謎めいたヴィーナスでした。 |
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第2章 アカデミズム第一世代とロマン主義の台頭 | |||||
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ヴェルネはオルレアン公時代からルイ・フィリップの庇護を受けていましたが、ベルサイユの新歴史博物館のための公式注文を受けて制作した作品。1830年の7月革命で、国王に推挙されたオルレアン公ルイ・フィリップがパレ・ロワイヤルに向かうシーン。 |
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聖書の「創世記」のワンシーンが描いた作品。アブラハムの妻サラに子供ができず、女奴隷のハガルを妾にして、イシュマルを儲けました。しかし、その後、妻のサラにも息子イサクが誕生し、状況は一変。アブラハムは非情にもハガルと息子に追放を命じたのですが、この作品はそのシーンをリアルに描いています。 |
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イギリスの清教徒革命を主題にした歴史画で、斬首後にホワイトホール宮殿の部屋に運ばれた国王チャールズ1世の亡骸を、護国卿クロムウェルが棺の蓋を持ち上げてじっと見詰めるシーン。 |
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アングルを師とし、新古典主義の画家として活躍したフランドラン。ルーブル美術館に「海辺に座る裸体の青年」や素描「十字架のキリスト」などが収蔵されていますが、この展覧会に出品されていたもう一つの作品「トロイアへ向かうギリシャ軍の動きを見張るプリアモスの息子ポリテス」はその系統の作品です。 |
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エレミヤは旧約聖書の『エレミヤ書』に登場する古代ユダヤの預言者。神が「エルサレムが廃墟になる」という預言を、若者に書き留めさせているシーンです。 |
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グレールはスイス人で、自分自身は従来のサロン好みのアカデミックな絵を描く画家でした。しかし、彼がドラロッシュから引き継いだアトリエでは塾生たちには独自の絵を描くように奨め、アトリエには自由闊達な雰囲気がありました。これは当時の指導者には珍しいことで、ルノアール、シスレーら後の印象派の画家たちがここから数多く育っていきました。グレールは報酬を受け取らず、謙虚で寛容な師匠として弟子たちに大変慕われていたそうです。 |
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ロマン派の画家として活躍したドラロッシュは、1832年からフランス国立美術学校の教授として教鞭を執り、講堂壁画の制作も手掛けました。実際の壁画は高さ3.9m、幅24mもある大きなもので、ドラロッシュは5年もかかって制作しました。ミケランジェロ、ティツィアーノ、ルーベンス、レンブラントなど、巨匠と呼ばれる画家たちが自然な姿で集う姿が描かれています。 |
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