美術展めぐり MYセレクション

19世紀前半から中頃までが中心のPart1の続きです。19世紀中頃からのフランス絵画は、時代の流れとともに様々な動きがあり、時代とともに少しずつ変遷していきます。複雑な要素が絡み合ってわかりにくい部分もありますが、自分なりにまとめてみました。あまり知られていない分野でもあるので、とても新鮮でした。

PART1へ PART2
第3章 アカデミズム第2世代とレアリスムの広がり


 19世紀も中ごろになり、産業革命による急速な近代化や1848年の二月革命での共和制の成立など時代の変動とともに、美術界にも日常的で現実的な事柄をテーマにしようという動きが現れてきました。今まで絵画の中で重要視されてきた「理想」ではなく、庶民の生活や自然の風景・労働者など、身近な現実をありのままに描くことを主張した「写実主義(リアリスム)」です。この時代の画家達は歴史や古典美の研究から解放され、目の前に見える自然な美を自由に描くことができるようになりました。

 しかし、フランスの美術界で依然として権威をもっていたのはアカデミーでした。カバネルやブグローなどアカデミニスム画家たちが皇帝ナポレオン3世をはじめとした権力者たちの支持のもとに活躍を続けていました。
 アカデミーは伝統を重んじるあまり、印象派なども新しい作風の作品を認めず、1863年のサロンでは約3千点もの作品を落選させました。これに反発した画家たちの要望により、ナポレオン3世も後援した「落選展」が開催されるなど、美術界はさらに新しい時代の到来を迎えていました。
 その後、19世紀後半になると、印象派やそのほかの革新的な画家たちが脚光を浴びると、アカデミニスムの画家たちの作風は時代遅れとして急速に忘れ去られていきました。しかし、20世紀末にアカデミニスム絵画が再び見直されるようになり、彼らの作品も再評価されるようになったそうです。

「アラクス河岸で牧人に発見されるゼノビア」

「アラクス河岸で牧人たちに発見されるゼノビア」
ポール・ボードリー
1850年

 ボードリーは第二帝政期を代表するアカデミニズム画家。ナポレオン3世からガルニエ宮の装飾を依頼され、10年かけて制作したことでも知られています。
 このゼノビアを描いた作品は、1850年にウィリアム=アドルフ・ブクローとともにローマ賞を受賞した時の出品作。
 
 強奪してアルメニア王となったイベリアの王子ラダミストゥスはパルティアが支援する反乱によって倒された。ラダミストゥスは身重の妻ゼノビアを連れて逃亡しましたが、長い時間馬に乗っていることができず、ゼノビアは敵の手に落ちるよりはと夫に自分を殺してくれと懇願しました。そして、アラス川の川岸で夫の手でゼノビアは刺され置き去りにされたのですが、数人の羊飼いたちに発見された、一命を取りとめたのでした。それが、この絵画のシーンです。



「酔ったバッコスとキューピッド」
ジャン=レオン=ジェローム

1750年

 ジェロームはドラロッシュのもとで修行を積んだ後、1947年にサロンで銅賞を獲得。そして、この「酔ったバッコスとキューピット」は翌48年に銀賞を獲得した作品です。
 浅黒いバッコスはケシ(忘却と象徴の)冠をかぶり、アンフォラ(飲み物をいれる壺)を左手に持っています。葉の冠をかぶった白い肌のキューピッドは、矢筒と矢(力の象徴)を持ち、遠くに見える巫女たちの踊りの輪に加わろうとバッコスに誘いをかけています。ジェロームの絵画は磁器のような光沢が特徴ですが、この2人の天使たちも輝くような色彩となめらかな筆致で描かれています。
 ジェロームは歴史を題材にした作品を得意としましたが、1950年代からトルコなどオリエントを題材にした多くの作品を残し独自の世界を築きあげました。また、彫刻家としても活躍するなど、多彩な芸術家として名を残しています。



「フローラとゼフュロス」
ウィリアム=アドルフ・ブクロー
1875年

「フローラとゼフィロス」

 ブクローもまた若き日にローマ賞を獲得し、イタリア留学を経て美術アカデミー会員となり、1888年には国立美術学校の教授となるアカデミズム絵画のエリートコースを歩んだ画家でした。アングルなどの新古典主義の流れを汲む伝統的な画風でしたが、神話や天使、少女を題材とした絵画を得意とし、官能的な裸婦像や憂愁を帯びた若い女性などに独特の世界を築きました。
 当時高い評価を得ていた甘美なブクローの作品は、印象派やキュービズムなどモダンアートの台頭などにより20世紀以降は次第に忘れられていきましたが、近年は再評価されて人気も高まっています。


  この作品は、1870年にサロンに出品されたオルセー美術館所蔵の「パオロとフランチェスカ」のレプリカで、山形県の山寺にある後藤美術館の所蔵。
 この悲劇的なシーンはダンテの『神曲』の中のある物語を描いたもので、殺されている男女がパオロとフランチェスカです。 まだ若いフランチェスカは政略結婚によりジョバンニの元へ嫁がされたのですが、夫の美男子の弟パオロと恋仲になってしまいます。 ある日、2人で本を読んでいる時にパオロがフランチェスカをふいに抱き寄せたところをジョバンニが目撃し、嫉妬のあまり二人を刺し殺してしまいました。右奥の方にほんの少し顔をのぞかせているのがジョバンニです。絵全体が暗く重厚で、ドラロッシュの歴史的風景画の影響を感じる作品です。

 カバネルは、ブクローとともに19世紀のアカデミニスム絵画を代表する画家の一人。1844年にサロンに初出品すると、翌年には22歳でローマ賞を獲得。その後もエリートコースを歩み、ナポレオン3世のお気に入り画家となるなど、国立美術学校の教授の地位を得て多くの画家たちを育てました。


「パオロとフランチャスカ」
アレクサンドル・カバネル
1870年


ナポレオン3世による第二帝政期にあった1863年のサロンには多くのヴィーナスの裸体が出品されたため、「ヴィーナスのサロン」と呼ばれました。 厳しい審査で多くの作品が落選し、その苦情が皇帝の耳まで届き、落選展が開催されたことで知られています。
 それまでは女性の裸体といえば女神と相場が決まっていたそうですが、彼らは女神の形を借りることで女性の裸体を堂々と描きました。これらのヴィーナたちスは当時のアカデミニスム絵画を代表する作品とされていますが、従来の伝統的な技法やテーマに忠実にのっとった作品群からは明らかに作風は奔放で、当時の新しい美術革新の動きの影響が見て取れます。


「ヴィーナスの誕生」
アレクサンドル・カバネル
アドルフ・ジュルダン
1864年頃

「ヴィーナスの誕生」


「ヴィーナスの誕生」
アモリー=デュバル
1862年

 1863年のサロンに出典され、皇帝ナポレオン3世が購入したオルセー美術館所蔵のカパネルの「ヴィーナスの誕生」のレプリカ。大手の美術商であるグービル商会がジョルダンに複製を描かせ、カバネル自身が加筆・修正し、署名をしたそうです。上に紹介したカパネルの「パオロとフランチェスカ」と比較すると、同じ画家の作品だと思えないほど、色彩も明るく、構図なども大胆で開放的です。

 それまでの絵画では、女性の裸体は神話の中のものだけでした。天使が描かれていることで、この女性は女神であるともとれますが、どう見ても生身の女性のように見えます。しかし、その完璧なまでに均整のとれたプロポーションは理想化されており、神ががかった美しさで輝いています。アカデミスム画家カバネルは、神話の世界の要素を取り込んで形式美を残すことで、女性の肉体美を高潔に描くことに成功したのです。

顔は横を向いているものの堂々とした立ち姿の裸体の女性。手足の長いスラリとしたプロポーションに小顔は、まさに現代の私たちの理想とするプロポーション。ヴィーナスというより、まるでモデルさんにような!

 



「真珠と波」
ポール・ボードリー
1862年

「真珠と波」

ヴィーナスをモチーフにした女性の裸体が流行したパリで、高い評価を得た作品の一つ。この作品は、ナポレオン3世夫人のウージェニ皇后が買い上げたとか。

第4章 アカデミニスム第三世代と印象派以後の展開


「ヘベ」
   カロリュス・デュラン
1870年

「ヘベ」

 19世紀後半は、それまでの絵画の役割や求められる作風などが変わり、美術界の大きな転換期になった時期です。それには19世紀の前半の写真の普及など様々な要因が関係しています。 
 それまでの絵画は写実性が重視されていたため、ありのままを瞬間的に映し出すことのできる写真の登場は、絵画の世界に大きな変化をもたらしました。第一に、それまで需要の多かった肖像画の存在価値を下げ、肖像画によって生計を立てていた大きな画家にとって大きな痛手となりました。そして、絵画では写実性は重要視されなくなり、自由な表現や抽象的な描き方をする画家が登場するようになりました。
 また、同じく19世紀前半に登場したチューブ入り絵具の使用によって戸外での制作活動が容易になると、パリを離れた郊外で変化に富んだ自然を題材にした作品を自分の感性のままに描く画家が増えてきました。フォンティーヌブローのバルビゾンで活動したバルビゾン派と言われる画家たちがその中心で、1820年頃から50年ごろまで約100人もの画家たちが活動し、60年代の印象派の誕生につながっていきます。

 彼らの作風は当時まだ権威を持っていたアカデミスムの画家たちに受け入れられず、サロンから締め出されたままでした。彼らは時の権力者たちの支援を受け、密接な関係を保って、今なお美術界の主流でした。そのような体制に不満を持つ画家たちは次第に結束し、新しい流れを生み出していきました。
 まず1863年にはサロンから締め出された画家たちによる「落選展」の開催され、67年のパリ万博博覧会で日本の工芸品などが出品されるとジャポニズムブームが起こりました。このブームは次の78年の開催時まで続き、特に北斎や広重などの浮世絵は印象派をはじめとしたヨーロッパの画家たちに大きな影響を与えました。 独創的で自由な空間表現や鮮やかな色彩に魅せられた彼らは、それまでの伝統的な絵画の様式から大きく離れ、細部の描写やタッチにこだわらず、独自の空間表現と明るい色彩で美しい絵を描き始めました。どちらかと言えば暗く重苦しい絵画が多かったヨーロッパで、明るい印象派の絵画は一気に花開きました。
 ちょうどその時期の1874年に、モネ、ルノアール、セザンヌら印象派の画家たちが自ら主催した展覧会が開かれました。「第1回印象派展」と呼ばれたその展覧会は、それまで独占的だったサロン以外に画家が作品を発表できる場が新設された画期的なものでした。そして、彼ら印象派の画家たちが台頭はフランスの美術界に新風を巻き起こし、アカデミスムの画家たちにも少なからず影響を与えました。
 こうした動きは、古い体質の美術界が変わっていくきっかけとなり、サロンの方もこの時期に改革がなされています。1881年にはフランスの国家主催から「フランス芸術家協会」による民営のサロンとなり、さらに90年には新設された「国民美術協会」によってサロンが開催されました。

 その後、19世紀末にも新印象派、象徴主義など様々な革新的な動きが生み出されていきました。それらはさらに芸術性やメッセージ性の強いものへと変化していき、20世紀のキュビズムやシュールレアリスムなど様々な芸術運動へつながっていったのです。

 「ヘベ」とは元々「若さ」の意味で、ゼウスとその正妻ジュノーの娘で、優美さと若さを象徴するギリシア神話の女神です。古典ギリシア語では「へーべー」と伸ばして発音するそうです。ヘベは、オリンポスの宮殿で饗宴が開かれる時には、神酒の給仕役をするそうで、この絵でも頭の上から左手に持った杯に酒を注いでいるところが描かれています。
 この絵はパリのコミック座で上演されたオペラ「フロランタン」の舞台装飾画として描かれたそうで、大きなキャンパスに大胆な構図で鮮やかな色彩を使って描かれており、十分に舞台映えしそうです。オペラのストーリーは、フィレンツェを舞台にロレンツォ豪華王が2人の画家を競わせるというものだそうで、こちらも興味惹かれます。

 


「カルメンに扮したエミリー・アンブルの肖像」
   エドゥアール・マネ
1880年

 アングルの「パフォスのヴィーナス」とともに、この展覧会のイメージキャラクターとして、チラシ等に利用されていた作品です。
 エミリー・アンブルはマネと親交のあった当時の人気女優だったそうですが、エミリーの堂々とした体格とマネの大胆な筆づかいでとても存在感のある作品でした。



「無垢な結婚」
   
ジャン=ウジェーヌ・ビュラン
1884年

「無垢な結婚」

 大きなキャンパスに淡くやわらかい色彩で描かれたこの作品は、全体的に非常に優しい雰囲気を醸し出していて印象に残ります。
 作品の舞台となっているのは、ビュランの故郷であるシャルリー・シュール=マルヌの小さな村。愛し合う若い二人は、普段着のまま野菜畑で結婚式のまねごと?をしています。
 この作品の描かれた時期にビュランも結婚しているそうで、自分たちのことをイメージして描かれた作品かもしれないと思うと興味深いものがあります。



「ランドックの扇動者」
   
ジャン=ポール・ローランス
1887年

 中世の宗教戦争を題材にした作品で、異端裁判所の残虐行為に対する告発を審議しているシーン。多数派のドミニコ派に対立するフランチェスコ会派の修道士ベルナールが描かれています。
 もう一枚出品されていたローランスの「カロリング朝最後の玉座」も歴史を題材にした作品でした。



「シヴェルニーの麦わら」

クロード・モネ
1884年

 シヴェルニーはモネが晩年を過ごした場所として有名ですが、この麦わらの描いた絵画を何枚も残しているとか。何気ない風景のように見えますが、じっくり見れば見るほど色彩の表現が見事な作品でした。





「ガルダンスから見た  
  サンヴィクトワール山」

   
ポール・セザンヌ
1892−95年

晩年、故郷のエクス・アン・プロヴァンズにアトリエを構えたセザンヌは、アトリエ周辺の自然を繰り返し描きましたが、そこには近郊にそびえる白い石灰岩の山・サン・ヴィクトワールが必ずといっていいほど、描きこまれていました。この作品は、それらの中でもヴィクトワール山が大きくメインに描かれている作品です。


     

※Part1へ


(鑑賞日:2009年7月10日、更新日:8月2日、13日)