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 悲劇のフランス王妃マリー・アントワネットの親愛なる取巻きとして有名なポリニャック伯爵夫人(Comtesse de Polignac)は、元の名をヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロンといい、マリー・アントワネットより6年早い1749年の生まれ。
 生家や生い立ちについては詳しくわからないが、彼女の嫁いだポリニャック家は代々フランス王家に仕えた家柄だった。ルイ14世とルイ15世時代には外交官としてメルシエ枢機卿が重用され活躍。しかし、ルイ14世の寵姫のモンテスパン侯爵夫人が1678年に起こした黒ミサ事件に一族から関与者を出したほか、メルシエ枢機卿も後に失脚し、ポリニャック家の家運は衰退ぎみであった。

 1774年、ルイ15世が死去すると、直ちに王太子ルイ・オーギュストがルイ16世として即位し、王太子妃マリー・アントワネットは18歳でフランス王妃となった。長い間、フランスの宮廷では国王の寵姫によって牛耳られていたため、国民は若くて愛らしい新王妃を新しい時代の期待を込めて温かい目で迎えた。しかし、若くして王妃になったアントワネットはそれまでの古いしきたりに束縛されるのを嫌い、自分の思いのままにふるまうようになった。自分のお気に入りの人物だけを周囲に集め、それ以外の人々は“退屈な人たち”として宮廷の中心から排除していったのだった。
 王太子妃時代からのマリー・アントワネットの一番の友人だったのは王家とも血縁関係もあるランバル公爵夫人で、女官長のような地位を与えられていた。しかし、享楽的な王妃はおとなしく控えめな彼女を次第に物足りなく感じるようになっていく。そこに登場したのが、ポリニャック伯夫人だった。
 当時26歳だった伯爵夫人は、気品と愛らしさを備えた魅惑的な美貌ですっかり王妃を魅了し、天真爛漫な2人はまたたく間に意気投合した。夫ともども人の良い王妃に取りいり、ランバル公爵夫人から王妃の第一の親友の座を奪うのに時間はかからなかった。

ポリニャック伯爵夫人

 王妃はそのうちヴェルサイユの本宮殿を離れ、自分だけのプライベートな小宮殿「プチ・トリアノン」でお気に入りの友人だけに囲まれて過ごすのを好むようになった。王妃と取巻きたちは当時としては奇抜で派手なファッションを生み出し、退屈することを恐れて様々な遊びにふけり、惜しげもなく浪費を重ねた。
 ポリニャック伯爵夫人はもちろんプチ・トリアノンの常連だったが、ここに泊ることを許されたのはポリニャック伯爵夫人と王妹・エリザベート内親王だけだったという。マリー・アントワネットはやがて片時も離れていられないほどポリニャック伯爵夫人に心を許すようになる。あまりの親密ぶりに、王妃の取り巻きを快く思わない人々から同性愛の噂をたてられるほどであった。
 また、ある時、伯爵夫人が経済的な理由で宮廷を去ろうとした際に、マリー・アントワネットは涙を流して引きとめたという。そして、ポリニャック夫妻には年金および下賜金として年間50万リーヴル、後には70万リーヴルもの大金が与えられることとなった。
 こうして、したたかにも王妃の友人という立場を利用し権勢を欲しいままにしたが、フランス革命が起きるとポリニャック夫妻は国王一家を真っ先に見捨ててオーストリアに亡命した。ランバル公爵夫人が最後まで国王夫妻に忠誠を尽くし、王妃と親しい王党派として最後は民衆によって惨殺されたのとは対照的だった。
 しかし、民衆の憎悪の中心人物の一人でありながら革命をうまく逃れたポリニャック伯夫人も、それからまもなく命運が尽きて、1793年に亡命先のウィーンで44歳で急死した。マリー・アントワネットが断頭台の露と消えのと同じ年だった。
 
 その後、伯爵夫人の次男ジュール・ド・ポリニャックは王政復古後に帰国して、シャルル10世の時代の1829年にフランスの首相になった。だが、徹底的な反動政策で民衆の恨みを買い、やがて起きる「7月革命」によりその地位は奪われ、終身刑の判決を受けた。運よく大赦によりロンドンへ逃れ、1847年に帰国してパリにて没した。

ポリニャック伯爵夫人
世界史美女図鑑
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