大天使ミカエルからオベール司教へのお告げ
一夜にして海に囲まれた孤島に変身

モン・サン・モッシェル
大天使ミカエルとオベール司教のレリーフ
教会内部に飾られた大天使ミカエルとオベール司教のレリーフ

 今や世界的に有名な聖地となったモン・サン・ミッシェルの歴史は、今から遙か遠く1300年前の8世紀初めに起こったある伝説から始まります。時は、メロヴィング朝のフランク王国時代でした。

 言伝えによると、モン・サン・ミッシェルからほど近いアヴランシュの町の司教だったオベールの夢に大天使ミカエル(仏語でサン・ミッシェル)が現れ、「あの岩山に聖堂を建てよ」と命じたということでした。
 一度ならず、再び大天使ミカエルはオベールの夢にやって来ましたが、オベール司教はただの夢だと思ってなかなか信じませんでした。しかし、業を煮やしたミカエルは3度目の時にオベールの頭に指を突っ込むという強硬手段でお告げを示しました。翌朝、オベールは自分の頭に穴が開いていることに気づいて愕然とし、ようやくお告げが本物だと確信したのです。
 ミカエルが指示した岩山は古くはケルト人が「トンブ山」と呼んで崇拝していた場所でしたが、さらにオベールには「天から露が降りた場所を乾かして、そこに建てよ」と大天使からのお告げがありました。そこで、オベール司教が指示通りの場所に小さな聖堂を建てると、それまで陸続きだったその場所は、驚くことに一夜にして海にに囲まれる孤島になったといいます。このような経緯を経て、708年の10月16日にモン・サン・ミッシェルは献納され、それ以後、聖地としての歴史が始まったのでした。

英仏両国の長く続く対立の中で
モン・サン・ミッシェルは静かに信仰を守り続けた

 8世紀から9世紀にかけて、フランスを含むフランク王国はカロリング朝のカール大帝により最盛期を迎えますが、9世紀ごろからは内紛が続き、843年には3つの国に分割され、国家の弱体化が続きました。すると、特に西フランク王国の沿岸部はノルマンやマジャールなどの周辺諸民族からの圧迫に悩まされるなりました。
 こうした状況の中、海に浮かぶモン・サン・ミッシェルは毎年のように海を我が物のように暴れるノルマン族のバイキングの脅威に晒され、略奪にも遭いました。他の僧院では危機が迫ると貴重な聖遺品を持って内陸に逃げるケースがほとんどでしたが、モン・サン・ミッシェルの修道士たちがこの島を見捨てることはなく、聖ミカエルに捧げる聖堂を守り、信仰を続けました。
 やがて、ノルマンたちはやがてセーヌ河沿いに住み着くようになり、カトリックへの改宗を条件に、バイキングの首領ロロはフランス王から「ノルマンディー公」として認められ、正式に領土が与えられました。この後、この地域は「ノルマンディー」と呼ばれるようになり、ノルマンの人々はフランクに同化していきました。
 その後、ノルマンディー公リチャード1世の命で、966年にベネディクト会の修道院が設置されたのをきっかけとしてモン・サン・ミッシェルの大造営が開始され、それ以後、聖堂と修道院は上へ上へと増築を続けていきました。

 そして11世紀、力を蓄えたノルマンディー公ウィリアムは、王位継承権を要求してイングランドに上陸。1066年、アングロ-サクソン貴族を征服し、イングランドに「ノルマン朝」を開きました。ウィリアムはこれ以後「征服王」と呼ばれるようになりますが、フランスでも勢力を持ち続けたので、英仏両国は微妙な状態が長い間続くことになりました。
 すでにフランスでは10世紀にカロリング朝からカペー朝へ代わっていましたが、イングランドでも12世紀半ばにノルマン朝が断絶するとプランタジネット朝へと移りました。プランタジネット朝の初代ヘンリー2世はその血筋や結婚によって、イングランドの他にもアキテーヌやノルマンディーにも領土を保有。フランス最大の封建領主となり、両国の関係はさらに複雑で緊張感漂うものとなりました。
 そして、12世紀末にリチャード獅子心王の逝去によりイギリスの王権が弱まると、フランス王フィリップ・オーギュストがノルマンディーを征服。モン・サン・ミッシェルはこの時イギリス側に忠誠を誓っていたため、フランス軍の襲撃を受けてしまいます。修道士たちは抵抗を続けましたが、1203年に起きた火災で街は焼け、僧院も一部が消失するという大きな損害を受けました。
 そんな不安定な世の情勢でしたが、11世紀から12世紀は十字軍の遠征も行なわれたように、キリスト教信仰がヨーロッパ全土で熱心だった時代であり、モン・サン・ミッシェルにも聖ミカエル崇拝に惹かれた巡礼者たちが数多く集まってきました。崩壊した建物も修復され、13世紀には「ラ・メルヴェイユ」と呼ばれる建築棟も完成ほか、様々な改増築が行なわれ、ほぼ現在のような修道院の形ができ上がりました。

 















天使のイメージ
11〜12世紀の模型
11〜12世紀のモン・サン・モッシェルの模型(修道院内に展示)
百年戦争で大天使崇拝が高まり
聖地モン・サン・モッシェルへの巡礼がブームに
聖オベールの礼拝堂

15世紀に建てられた聖オベールを祀った
小さな礼拝堂。
満潮時には周囲を海で囲まれたという。
海の遙かかなたは、長い間戦ったイギリス。

 そして14世紀、英仏はついに百年戦争へと突入します。1328年、カペー朝が断絶してヴァロア家のフィリップ6世が即位すると、イギリスのエドワード3世がフランスの王位継承権を主張して侵略を開始。戦況は二転三転しますが、英仏の間に位置するモン・サン・ミッシェルの修道院は閉鎖され、城塞として利用されることになります。しかし、干満の差と潮流の激しさが助けとなって敵が船で近づくことができず、戦争で大きな被害を受けることなく、モン・サン・ミッシェルは長い戦いの時代を無事乗り越えきました。
 
 百年戦争が終結すると、モン・サン・ミッシェルが戦乱を乗り切ったことで大天使ミカエルへの人々の崇拝は高まり、国王ルイ11世はフランスを勝利に導いた大天使ミカエルを称え「聖ミッシェル勲爵士団」を創設し、有力で有力な貴族を選びました。そして、世が落ち着くとますます巡礼ブームに拍車がかかり、フランス国内を中心にヨーロッパ中から聖地モン・サン・ミッシェルへたくさんの人たちが巡礼にやってきたのです。
 しかし、交通の発達した現代と違って、当時の旅は大変なものでした。道中には強盗や疫病、戦争といったたくさんの危険が待ち受けており、また、最後には引き潮を待って砂浜を渡らねばなりませんでした。一気に押し寄せる大波に飲まれて命を落とすものもあり、モン・サン・モッシェルに巡礼するものは遺言書をしたためてから出発したといいます。そして、巡礼者たちは、モン・サン・ミッシェルに到着すると捧げ物をし、巡礼マークやバッジなどの大天使をモチーフにした記念品を選んで身に着けました。
 また、フランスでは青少年たちの巡礼も盛んだったそうで、彼らは若い羊飼いにちなんで「牧童」と呼ばれていたとか、、、。学生が引率した集団だったり、付き添いが一緒だったり、時には親に内緒で旅に出た者もいたそうです。一種の修学旅行や社会科見学のようなものだったのかもしれませんが、彼らにとってはロマンを求めての冒険旅行でした。こういった子供たちの巡礼は、危険が多すぎるためあまり好ましく思われていなかったようですが、フランス革命の頃まで続いたそうです。


ジャンヌ・ダルク像

教会の入り口に祀られた
フランスの守り神
「ジャンヌ・ダルク」像
学術の地から「海のバスチーユ」へ
激動の時代を経て、今なお世界中の憧れの地
19世紀のモン・サン・モッシェル

19世紀のモン・サン・モッシェル

  巡礼が盛んになると同時に、モン・サン・ミッシェルでは教会や修道院の修復・再建が熱心に行なわれたものの、ルネサンス期になると修道院は新しい芸術の中心ではなくなっていきます。その後、17世紀には「聖モール」と呼ばれた新ベネディクト派の修道僧たちが住み始め、彼らは学問に専念し、古文書を修復や医学に取り組み、修道院は一大研究センターのような役割を果たしていました。
 しかし、安穏とした歳月は続かず、16世紀の宗教戦争の時期にはカトリックの過激派グループの拠点になったことにより、プロテスタント側から9回もの攻撃が仕掛けられました。そして、フランス革命後の18世紀にはモン・サン・ミッシェルは監獄として使用されるようになり、司祭や反革命の王党派など反体制派の多くの人たちが囚人として送り込まれました。1863年のナポレオン3世の勅命により閉鎖されるまで1万2千人もの人がここに送られ、「海のバスティーユ」として人々に恐れられたのです。

 モン・サン・ミッシェルが監獄としての役目を終えると、ロマン派小説家たちが中世芸術の流行を再び呼び戻し、再び人々の憧れと崇拝の場所として脚光を浴びるようになり、1874年から修復が開始されました。1879年には陸から堤防づたいに道が作られ、直接島に渡れるようになり、当初は鉄道も走っていたという。観光客も気軽に訪れることが可能になると、島の入り口と修道院を結ぶグラン・リュー通り付近には多くの宿やお土産店などが軒を連ねるようになりました。しかし、モン・サン・ミッシェルが再び修道院として再開されたのは、修道院創設1千年記念にあたる1966年のことでした。
 その後、1979年にはユネスコの世界遺産に登録され、その美しい景観と歴史的価値は多くの人々を魅了し続け、現在は年間300万人もの観光客を集める世界でも人気の観光地となっています。
 しかし、最近は環境保護の問題が深刻化しています。モン・サン・ミッシェルの島と陸地を結ぶ堤防の存在が潮流をせき止めることとなり、この100年間で2mもの砂が堆積。急速な陸地化が島の周囲で進行しており、島の間際まで潮が来ることは滅多になくなっています。この対策として、2009年には地続きの道路が取り壊され、2010年にはその替わりにとなる新たな橋がかけられることが計画されています。



モン・サン・ミッシェルTOP