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ルートヴィヒ2世 ルートヴィヒ2世
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ドイツ統一で対立するプロイセンとオーストリア
      普墺戦争の勃発にうろたえるルートヴィヒ

                

 ルートヴィヒが王位に就いた頃、バイエルンを取り巻く情勢は複雑なものがありました。
 元々、ドイツは歴史的に各地の諸侯の力が強く、地方分権が発達していました。王権の強かったフランスやイギリスなどと違い、国家としてのまとまりに欠け、「ドイツ」という国家の概念には曖昧なものでした。19世紀後半、イギリスから始まった産業革命の波がドイツにも流れ込みましたが、小国分立で十分な経済圏がない当時のドイツでは重工業の健全な発展はむずかしい状態にありました。そんな状況から、ドイツ民族の統一を求める民族主義が各地で高まっていたのですが、その民族の統一をどの範囲でするかで意見が分かれ、オーストリアを含めるか否かで「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」が対立していました。

 「大ドイツ主義」とは、ナポレオン失脚後のウィーン会議で誕生した「ドイツ連邦」を土台とし、その議長国であるオーストリアが旧神聖ローマ帝国の全域をドイツとして統合しようとした動きを言います。
 それに対する「小ドイツ主義」は、ドイツ民族以外の諸民族を多く含んだオーストリアを排除し、ドイツ民族だけで国家をつくろうとする動きで、その中心は新興の強国プロイセンです。プロイセンはいち早く改革を進めて国力で他を圧倒し、4つの王国と18の君主国、3つの自由都市だったドイツを1つの国家としてまとめ、その実権を握ろうと虎視眈々としていました。敏腕を振るったのは国王ヴィルヘルム1世の右腕として敏腕を振るった希代の政治家ビスマルクです。

 統一の主導権をめぐって両国の対立が激しくなり国際的緊張が高まる中、1864年の1月、プロイセンとオーストリアは同盟を結び、デンマークの根っこにあるシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国に共同出兵しました。ルートヴィヒ2世が国王の座に就く直前のことです。大義名分は民族紛争の解決でしたが、その分け前をめぐって両国は対立し、一触即発の状態となりました。

 こうした緊迫した情勢の中でルートヴィヒは国王となったのですが、激しく争うプロイセンとオーストリアの中間に位置するバイエルンは中立策を取り、どちらを支持するのかはっきりとした態度を示さずにいました。
 バイエルンはルートヴィヒ1世の時代から芸術や文化の発展には力をいれてきましたが、軍事力はあまり重視せず、財政の倹約のために削減されるほどでした。そして、この国では半世紀も戦争はなく平和だったため、国民の大半は安穏とした暮らしに満足し、ドイツの覇権争いは他人事のように考えているところがありました。しかし、状況はさらに緊迫し、曖昧な態度を取り続けることは難しくなってきました。プロイセンか、オーストリアか―。即急に旗色を決める必要がありました。
 バイエルンとオーストリアは古くから同じような文化圏にあり、バイエルンのヴィッテルスバッハ家とオーストリアのハプスブルク家とは姻戚関係も深く、両国は姉妹国のような関係にありました。1866年5月、議会はオーストリア側につくことを決定し、国王に開戦に備えての動員令への署名を求めました。
 
 しかし、美を愛し、理想の世界に生きるルートヴィヒには、戦争という厳しい現実は耐え切れないものでした。しぶしぶ署名はしたものの、見るも哀れに取り乱し、退位して弟のオットーに王位を譲ると言い出してベルク城に引きこもってしまいました。伝説の世界の英雄に憧れるルートヴィヒでしたが、現実の醜い争いごとには繊細な神経が耐えられないのでした。

  1866年6月16日、プロイセンは宣戦布告を行なってホルシュタインのオーストリア統治地域を占領し、普墺戦争が始まりました。
 戦争が始まると、ルートヴィヒはシュタルンベルグ湖に浮かぶ薔薇島(ローゼンインゼル)に閉じこもりました。この島には王家のヴィラがあり、ルートヴィヒが幼い頃から愛した場所のひとつでした。非常時に国王の姿が見えないことに、周囲は大慌て。まだ若い国王とはいえ、「こういう時こそ毅然として立ち振る舞うのが君主たるものの務めなのに、、、」と周囲はルートヴィヒへの不信感を募らせました。

 外部の勝敗予想は五分五分でしたが、プロイセンの参謀総長モルトケの軍略によりプロイセンは優位に戦いを進めました。開戦前に兵員輸送のための鉄道や命令伝達のための電信網を準備していたため、開戦後、プロイセン軍は迅速に進撃を行うことができたのでした。7月にケーニヒグレーツ(サドワ)でオーストリア軍がプロイセンに敗北し、その1週間後、バイエルン軍がキッシンゲンで大敗。戦争を嫌ったルートヴィヒの気持ちが天に通じたのか、普墺戦争は開戦からたった7週間で決着しました。

ビスマルク

プロイセンのビスマルク
軍服姿のルートヴィヒ

軍服姿のルートヴィヒ2世
19世紀後半のプロイセンの軍事をリードした3人。左からビスマルク、アルブレヒト・フォン・ローン 、ヘルムート・フォン・モルトケ。

ケーニヒグレーツの戦い
「北ドイツ連邦」を中心としたドイツMAP
【1866〜1871】 
青い部分がプロイセンの領土
赤線で囲まれたところが「北ドイツ連邦」

 絶望したルートヴィヒは薔薇島からワーグナーにこんな内容の手紙を書き送っています。
 「至るところ偽りと裏切りに満ち、宣誓は何の役にも立たず、約束は踏みにじられます。我々の主権が奪われ、プロイセンに隷属する時は万事終わりです。実権のない影の王になどなりたいとは思いません。しかし、まだ希望は捨てていません。どうかバイエルンの独立が守られますように、、。」。

 普墺戦争の結果、オーストリア主導の「ドイツ連邦 」は解消され、ドイツ統一におけるプロイセンの主導権は確たるものとなりました。 1867年にビスマルクは普墺戦争の勝利をもとにプロイセンと北ドイツ諸邦を「北ドイツ連邦」としてまとめ、ドイツ統一への第一歩を踏み出しました。しかし、バイエルン王国を中心とするドイツ南部の諸邦には反プロイセン・親オーストリアの気風があったため、プロイセンはまずオーストリアを除く小ドイツ主義によるドイツ統一を目指すに留めました。

 バイエルンのルートヴィヒ2世は、ひとまず胸を撫で下ろすことはできたものの、数年後、再び国家間の厳しい戦いの中に引き込まれていくことになります。