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【1866〜1871】
青い部分がプロイセンの領土
赤線で囲まれたところが「北ドイツ連邦」 |
絶望したルートヴィヒは薔薇島からワーグナーにこんな内容の手紙を書き送っています。
「至るところ偽りと裏切りに満ち、宣誓は何の役にも立たず、約束は踏みにじられます。我々の主権が奪われ、プロイセンに隷属する時は万事終わりです。実権のない影の王になどなりたいとは思いません。しかし、まだ希望は捨てていません。どうかバイエルンの独立が守られますように、、。」。
普墺戦争の結果、オーストリア主導の「ドイツ連邦 」は解消され、ドイツ統一におけるプロイセンの主導権は確たるものとなりました。 1867年にビスマルクは普墺戦争の勝利をもとにプロイセンと北ドイツ諸邦を「北ドイツ連邦」としてまとめ、ドイツ統一への第一歩を踏み出しました。しかし、バイエルン王国を中心とするドイツ南部の諸邦には反プロイセン・親オーストリアの気風があったため、プロイセンはまずオーストリアを除く小ドイツ主義によるドイツ統一を目指すに留めました。
バイエルンのルートヴィヒ2世は、ひとまず胸を撫で下ろすことはできたものの、数年後、再び国家間の厳しい戦いの中に引き込まれていくことになります。
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