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ルートヴィヒとワーグナーの衝撃的な出会い
ようやくスポットライトを浴びたドイツ・オペラ
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ルートヴィヒがリヒャルト・ワーグナーの作品を最初に知ったのは12歳の時でした。その頃、ミュンヘンで歌劇「ローエングリン」が初演されたのですが、まだルートヴィヒにはオペラは早すぎると父に禁じられました。やっと許されてミュンヘンの宮廷歌劇場にて初めて歌劇「ローエングリン」を鑑賞したのは、ルートヴィヒが15歳の時でした。
感動に胸を震わせ、はらはらと涙を流すルートヴィヒ。その感激ぶりは周囲もあきれるほどでした。ワーグナーの作り出す壮大な世界は、それはルートヴィヒが憧れ続けていた夢そのものだったのです。たちまちワーグナーに魅了されたルートヴィッヒは、父王に「ローエングリン」の再演をおねだりし、続いて「タンホイザー」の観劇も実現しています。
ドイツでは当時多くのロマン派の作曲家が活躍していましたが、その中でオペラというジャンルはなかなか浸透していませんでした。ドイツの宗教的・国民的気風が快楽主義的なオペラという形式自体を嫌った側面もありましたが、何世紀もの間、イタリアオペラが正統派オペラの形式とされ、ドイツや他のヨーロッパ諸国の作曲家がオペラを創作する際もイタリア語の台本で作曲されていたからでした。
ヨーロッパ諸国では、18世紀までイタリア音楽こそが最高のものであるという認識が根強く残っており、どこの宮廷でもイタリア人音楽家が重用されていました。しかし、その後、18世紀後半から19世紀にかけてハイドンやベートーベン、モーツァルト、メンデルスゾーンなどドイツを中心に数多くの作曲家が活躍し、ロマン派音楽が隆盛を極めました。しかし、ドイツではオペラを積極的に作曲する音楽家はなかなか現れなかったため、オペラにはなかなかスポットライトが当たっていませんでした。
本格的なドイツ・オペラの先駆けは、天才音楽家・モーツァルトによるものでした。まだイタリア音楽の影響の強い時代でしたが、ドイツ語による民衆のためのオペラは大きな反響を呼び、新しい音楽の流れを作りました。代表作の「フィガロの結婚」や「ドン・ジョバンニ」「魔笛」など今も数多く上演されている多くの作品を残しています。
ベートーヴェンもオペラに取り組みましたが、彼が作曲したオペラは「フェデリオ」1曲にとどまりました。そして、次にドイツ・オペラを引き継いだのが、ドレスデンで活躍したウェーバーです。彼の作品「魔弾の射手」は、ドイツ人を物語の主人公にし、ドイツ人がドイツ人のためにドイツ語で作曲した初めてのオペラでした。
リヒャルト・ワーグナーは少年の頃にウェーバーに影響を受け、ベートーヴェンに感銘を受けて音楽家を志したとされていますが、ワーグナーの出現によってドイツのロマンチック・オペラは急速に発展しました。 若い頃はなかなか芽の出なかっものの、1841年の「さまよえるオランダ人」を皮切りに、「ローエングリン」、「タンホイザー」、「トリスタンとイゾルデ」、「ニーベルングの指輪」など、現在での世界的に人気のある大作を次々に世に送り出しました。ルートヴィヒが初めて「ローエングリン」を鑑賞した頃、ワーグナーはドイツ・オペラの頂点を極める作曲家として認識されていました。
父の死で18歳で王位に就いた青年王ルートヴィヒ
敬愛するワーグナーを呼び寄せ破格の厚遇
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1864年3月、ルートヴィッヒの父マクリミリアン2世が急死。ルートヴィッヒは18歳でバイエルン国王として即位することになります。191cmのすらりと長身で、凛々しい顔立ちに黒褐色の巻き毛―。この輝くばかりの若き国王・ルートヴィッヒ2世の魅力に、バイエルンの民衆はたちまち魅了されました。
しかし、18歳のルートヴィヒはミュンヘンの大学での学問を始めたばかりでした。予定された学業はやむなく中断され、学業後に計画されていた外国への修養旅行などもすべて実現しないまま王位に就くことになりました。教育は未完成に終わり、知識と関心は大きく偏り、一人の人間としてもまだ未成熟なままでした。
とはいえ、王位についたルートヴィヒは、国王という任務に大いにやる気をみせました。元々バイエルンは君主の統治権が強いとはいえない国家でしたが、マクシミリアン1世の代にかなりの官僚化が進んでいました。しかし、ルートヴィヒは君主としては祖父のルートヴィヒ1世に近く、側近に任せっきりでただ書類に署名するだけの王座には満足せず、自ら君臨し統治することを望みました。
そして、この頃のルートヴィヒといえば、ワーグナーの世界に魅了され、寝てもさめても頭の中はワーグナー一色の毎日でした。そんなルートヴィッヒが王位についてすぐ指示したのは、敬愛するワーグナーを探し出し、バイエルンに招聘することでした。
このルートヴィヒの招きは、窮地にあった当時のワーグナーにとっては願ってもないことでした。それまでのリヒャルト・ワーグナーの生涯は、大変波乱に富んだものでした。ドレスデンで革命運動に参加して逮捕状が出ため亡命生活を送り、当時は追放処分は撤回されたていたものの、上演機会のない大作を書き続け、分不相応の贅沢をして多額の借金を抱えていました。
それに加え、フランツ・リストの娘で人妻のコジマとの不倫騒動で世の中を騒がせていました。コジマはワーグナーの推薦で宮廷指揮者になっていたハンス・フォン・ビューローの妻で、ワーグナーとは24歳も歳が離れていました。ワーグナーにもに別居中の妻がいて、いわゆるダブル不倫。到底許されぬこの2人の仲はミュンヘン中に知れ渡り、スキャンダルになっていました。
偉大な音楽家だったにせよ、いまだに「過激な革命家」というイメージが残り、スキャンダルにまみれたワーグナーを国王自身が呼び寄せ破格の待遇を与えたのですから、周囲が驚くのは当然です。 しかし、ワーグナーを心の底から敬愛するルートヴィッヒ2世は、そんな状況はおかまなし。彼の膨大な借金を肩代わりし、破格の年金を与え、貴族の屋敷が立ち並ぶミュンヘン市内の一等地・ブリエンナー街に豪華な邸宅を与えました。
そして、あまりの大作のため上演不可能だと言われていた「ニーベルングの指輪」のための大きな劇場の新設を提案したほか、ワーグナーのために音楽院を設立するなど、ワーグナーのためにあらゆる努力をしました。若き青年王は、自分の理想とするワーグナーの夢の世界を自分の手で実現させていくことに、無常の喜びを感じていたのでした。
1865年6月にはミュンヘンの宮廷劇場で「トリスタンとイゾルデ」を初演。上演不可能の烙印を押されていたこの作品の初演準備は困難だらけでしたが、5時間にものぼる上演は一応成功を収めます。
その夜、ルートヴィヒは歓喜の手紙をワーグナーに送っています。「なんという歓喜! その完璧さ。恍惚に包まれ・・・溺れ・・・沈み・・・、意識を失う、至上の喜び。神の如き作品!」 ルートヴィヒがワーグナーの作品で特に気に入っていたのは「ローエングリン」だとされていますが、「トリスタンとイゾルデ」も熱愛した作品だったようです。
しかし、ルートヴィヒとワーグナーの蜜月は間もなく終わりを告げることになります。
ミュンヘンの市民の頭の中には2代前のルートヴィヒ1世時代のローラ・モンテスの騒動がまだ記憶に残っていたこともあり、あまりに無分別な国王のワーグナーに対する過度な庇護は保守的なミュンヘンの人たちからの強い反発を受けたのです。
ワーグナーは都合よく王から金銭の援助を受けれるように政治にも口を出しするようになり、そうしたワーグナーの存在に危機感をつのらせた政府の画策により、ワーグナーは1年あまりでミュンヘンから退去せざる負えない状況になりました。
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「ローエングリン」 どんな話?
ドイツ王ハインリヒが、ハンガリー軍討伐の兵士を募るためにブラバント公国を訪れると、そこは領主不在の混乱の中にあった。
ハインリヒがその理由を問うと、先のブラバント公が亡くなり、さらに世継ぎの幼いゴットフリート王子が行方不明になっているからだった。姉の公女エルザと散歩に出た際に、森の中で消えてしまったという、、、。
ブラバントの領主を狙う伯爵テルラムントがエルザを弟殺しの罪で訴える。エルザが領主となり秘密の恋人を宮廷に上げようとたくらんでいるというのだ。実は、ゴットフリート王子ははテルラムントの妻である魔女オルトルートに白鳥に変えられていたのだった。
ハインリヒ王はこの調停をすることになるのだが、エルザはなんの申し開きもせず、彼女の名誉のために戦ってくれる騎士を待っていた。
王の伝令が騎士を呼び出すと、白鳥と共に騎士が現われ、決して自分の名を尋ねてはならぬとエルザに誓わせた上で、彼女の夫となることになる。・・・・・・★冒頭のみ紹介
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