|
ルートヴィッヒ2世は、1845年にドイツ南部のバイエルンを治めるヴィッテルスバッハ王家の皇太子マクシミリアンの嫡男として輝かしく誕生しました。ヴィッテルスバッハ家といえば、代々バイエルンの選挙候を務め、神聖ローマ帝国皇帝も輩出した名門の一族でした。
王家としてバイエルンを統治することになった
ヴィッテルスバッハ家とミュンヘンの繁栄
★
ルートヴィヒ2世の曽祖父に当たるマクシミリアン1世ヨーゼフ(マックス・ヨーゼフ)は、そのヴィッテルスバッハ家の傍流の三男として生まれたのですが、様々な事情が重なって本家の当主となった幸運な人物でした。そして、さらに幸運は続き、19世紀初頭のヨーロッパがナポレオンに統治されていた時期にバイエルンを公国から王国へと昇格させることに成功し、その初代国王となったのでした。
その国王マックス・ヨーゼフの後を継いだのが、王都ミュンヘンを近代的な都市に発展させたルートヴィヒ1世です。広場や道路を整備し、宮殿や将軍堂、アルテ・ピナコテークをはじめとした美術館などを建設し、現在のミュンヘンのほとんどがルートヴィヒ1世時代に建てられました。それらは徹底したギリシャ風古典主義の建築様式で、ミュンヘンは「イーザル河畔のアテネ」と呼ばれるほどでした。また、芸術を奨励し、ヨーロッパ有数の文化都市としてミュンヘンを花開かせました。
王国の発展には功績を残したルートヴィヒ1世ですが、その治世は大きなスキャンダルによって幕を下ろすことになります。王が60歳の時に美貌の踊り子のローラ・モンテスと出会い、その余りの溺愛ぶりから周囲の反発を呼んで退位を余儀なくされ、息子のマクシミリアンに王位を譲ることになりました。
ヨーロッパでは革命の気運が吹き荒れた1848年のことです。フランスで起こった「2月革命」の余波がヨーロッパ諸国に広がり、ドイツではウィーンやベルリンなどで「3月革命」が発生し、世の中が大きく動いていた時代でした。革命もブルジョワジー中心から労働者中心へと移っていき、王権の存在自体が微妙になっていた時期でもありました。
両親の愛と理解にに恵まれず
厳格な教育で育ったルートヴィヒの幼小時代
★
そんな激動の1848年の3年前の1845年の8月、ルートヴィヒは父・マクシミリアンの皇太子時代にミュンヘン郊外の王家の夏の離宮ニュンフェンブルク城にて生まれています。しかも、ルートヴィヒが誕生したのは、なんと!祖父のルートヴィヒ1世の誕生日と同じ8月25日。時刻も午前0時半と発表され、生まれた時間まで祖父と同じでした。そして、喜んだルートヴィヒ1世のたっての願いで、その子には祖父と同名の「ルートヴィヒ」という名前が与えられることになったのでした。
ルートヴィヒの母マリーは、プロイセン王の従妹に当たる女性で、目鼻立ちの整った美女。マクシミリアンの北ドイツに留学中に見初められて17歳で結婚し、20歳でルートヴィヒを出産。その3年後、マクシミリアンが王位に就いた1848年には弟のオットーも誕生しています。
父の即位でルートヴィヒは次の王位継承者となったわけですが、弟とともに優しい子守や養育係りに囲まれて幼年期は比較的穏やかな日々を過ごしたようです。しかし、十分な両親の愛に恵まれていたかというと、そうでもなかったようで、後年のルートヴィヒの孤独な精神の偏りはこの時代から少しずつ培われていったようです。
父王マクシミリアン2世は学者肌の人物で、几帳面でストイックな性格。国王としての務めを日々勤勉にこなし、忙しさから息子たちと接する時間の1日のほんのわずか。遊び盛りの子供たちの相手をすることは皆無で、優しい言葉をかけることすらほとんどなかったようです。そんな父の態度は多感な子供には冷淡にうつり、父親は彼らにとって遠い存在でしたが、ルートヴィヒは父自身がそういった幼年期を送っていたので仕方ないことであることは気がついていたようでした。
母のマリーは、飾り気がなく家庭的で良い母親といえる女性でしたが、ルートヴィヒの感性や夢想的な面は理解できませんでした。母親から拒絶されたと感じたルートヴィッヒは母親に心から甘えるということができず、心の殻に閉じこもるようになったのでした。
そして、ルートヴィヒが9歳になると、それまでの養育係とは引き離され、厳格で男性的な教育方針へと変化しました。そして、父マクシミリアンはさらに養育係に初老のフランス軍人を起用。軍人的で禁欲的な生活習慣を強要して厳格と服従の精神を叩き込むとともに、帝王学として極端なエリート意識教育を施したのでした。
朝早くから夜まで1日中、カリキュラムが組まれ、家庭教師がついて様々な学課の英才教育が施されました。学習には母親が付き添い、時として父親は体罰まで与えたとか。ルートヴィヒは理解は早かったそうですが、歴史や地理など興味のある分野しか身を入れて取り組まなかったそうです。
また、ケチで有名だったルートヴィッヒ1世の代からヴィッテルスバッハ家では倹約をモットーとし、王家としては質素な生活ぶりでしたが、二人の王子たちは召使が気の毒に思うほど粗末な食事しか与えられなかったとか。当時、「飢え」は鍛錬や罰として持てはやされていたからです。また、正しい経済観念を植え付けるために小遣いもほとんど与えられなかったのですが、後年のルートヴィヒ兄弟を見ると、そんな極端な教育は残念ながら裏目に出てしまったようです。
こういった極端な教育はヴィッテルスバハ家だけのものでなく、ウィーンのハプスブルク家など当時の王侯の子弟の教育には見られたのですが、多感な青年期のこういった教育は人間としての精神構造に大きな影響を与えました。小さい頃からルートヴィヒは想像力豊かで感受性の強い子供でしたが、後にはっきり表れてくることになる幼稚な自己愛を膨張させることになったのでした。
自然に囲まれたホーエンシュヴァンガウで
空想の世界を愛した少年時代のルートヴィヒ
★
ルートヴィッヒの子供時代は、父マクシミリアン2世が荒れ城を改築したホーエンシュヴァンガウ城を好み、よく一家で滞在しました。ルートヴィヒは母マリーや弟オットーとともによく周辺の山歩きにでかけたようで、彼らの登山用ズボンなどのスタイルが宮廷の流行にもなったとか。
豊かな緑と湖に囲まれたこの城は、白鳥の騎士ローエングリンや中世のゲルマン伝説などを題材にした壁画や白鳥にちなむ装飾で満ちており、読書と夢想の好きな多感な少年にはさながらおとぎの国にような空間でした。ルートヴィヒはいつしか白鳥の騎士に自分自身を重ね合わせて、中世への強い憧れの中で甘美な時を過ごすようになったのでした。
当時、ドイツでは中世への憧れを一つの特色とするロマン主義の風潮がもてはやされていました。ロマン主義は18世紀の後半に生まれ、論理よりも情感を重視し、民族性を重んじる思想としてヨーロッパに広く浸透し、文学・音楽・美術などあらゆる芸術分野にわたって人々に大きな影響を及ぼしていました。特に、民族としての国家統一の遅れていたドイツでは、ロマン主義の思想は深い共感を呼んで多くの人々に支持されました。ルートヴィッヒの過ごしたホーエンシュヴァンガウ城のように、荒廃していた中世の城が19世紀になってドイツの各地で修復されたのも、ロマン主義の一つの表われです。
そうした当時の風潮の中で、青年ルートヴィヒが中世の伝説の世界にのめりこんでいったのも、ある意味では自然なことでした。
そして、そんなルートヴィヒが16歳のなる少し前、彼の生涯に大きな影響を与える運命的な出会いが待ち受けていました。リヒャルト・ワーグナー。彼の作り出す壮大な物語の世界は、ルートヴィッヒを一瞬のうちに虜にしたのでした。
|
|
|
|
▲ミュンヘンのマックス・ヨーゼフ広場に立つマクリミリアン1世ヨーゼフの堂々たる銅像。左はレジデンツ、右がバイエルン州立オペラ劇場。
|
マックス・ヨーゼフとルートヴィヒ1世の銅像はこちら。 |
|
|
|
ルートヴィヒの祖父ルートヴィヒ1世は、ミュンヘンの都市改造を進め、芸術を奨励するなどバイエルンを魅力的な近代国家へと発展させた。ロマン主義への傾倒からかギリシア独立戦争を支援し、次男オットーを初代国王オソン1世として送り込んだ。
また、美女を好んだことで知られ、ニュンヘンブルク城に「美女ギャラリー」を作らせ、美貌の踊り子ローラ・モンテスとのスキャンダルから60歳の時に退位することになった。その20年後の1868年、孫のルートヴィヒ2世が王位に就いて4年後に没している。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
父・マクシミリアン2世と母マリー |
|
|
|
ルートヴィヒが誕生したとされているニュンフェンブルク城
の「選挙候妃の間」 |
|
いかにも厳格そうな 父マクシミリアン2世 |
|
|
|
ルートヴィヒと弟のオットー |
|
|
|
|
|
ホーエンシュヴァンガウ城 |
|
周囲を湖に囲まれたホーエンシュバンガウ城 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|