今から約250年前の1756年1月27日、天才音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはオーストリアの古都ザルツブルクの街に生を受けました。当時のザルツブルクはローマ・カトリックの大司教の治める都市で、イタリアの文化の強い影響を受けて「北のローマ」とも呼ばれ、大きな権力を持った歴代の大司教たちによって華やかな宮廷文化を花開かせ、芸術の栄えた時期でした。
ヴォルフガングの父 レオポルト・モーツアルトはそんなザルツブルクの宮廷音楽家で、ヴァイオリンの名手でもありました。ヴォルフガングの誕生する前、レオポルトは妻アンナ・マリアとの間にすでに6人の子供を授かっていましたが、そのうち無事成長していたのはヴォルフガングとは5歳違いのマリア・アンナ(
愛称ナンネル) のみでした。
父レオポルトは優れた音楽家としてだけでなく、音楽指導者としても才能を発揮していました。ちょうどヴォルフガングが生まれた1756年にはヴァイオリン演奏の手引書『ヴァイオリン教程』を出版しています。そんな音楽家として脂の乗り切った時期に、レオポルトは息子に音楽家としての確かな血筋と才能が受け継がれていることに気がつきました。姉ナンネルもまた優れた音楽才能を持っていましたが、その姉のクラヴァアの練習を横で見ていただけでそれを弾きこなし、教えたことはあっという間にを習得してしまいます。それが並みの才能でないことに驚きと喜びを感じ、さっそく音楽の英才教育を始めたのでした。
ヴォルフガングは驚くべきことに5歳で最初の作曲をし、6歳の時にはレジデンツにてザルツブルク大司教シュラッテンバッハの前で初めてピアノ演奏を行ないました。それを大司教が絶賛し、この神童の評判はまたたく間にザルツブルク中に広まりました。そして、レオポルトはこの驚くべき息子の才能をザルツブルクの中だけでなく出来るだけ多くの人々の前で披露し、正当な評価を息子に与えることこそ、父としての使命なのではないかと思うようになります。
モーツァルト一家は一度ミュンヘン訪問をした後、1762年の9月にウィーンに旅立ちました。これが一家総出で旅に明け暮れる日々の始まりでした。ウィーンではすでに神童ヴォルフガング少年の噂は評判になっており、すぐにシェーンブルン宮殿にて御前演奏をする機会に恵まれ、ヴォルフガングは女帝マリア・テレジアからも称賛を獲得しました。その際、ころんだモーツァルトを助けてくれた皇女マリー・アントワネットに「大きくなったら結婚してあげる」とプロポーズをしたのはとても有名なエピソードです。
一家は一度はザルツブルクに戻りましたが、しばらくすると再び演奏旅行に出発しました。ガタガタ、、馬車の旅です。旅の目的はヴォルフガングの才能を広くアピールするためでしたが、幼い神童にヨーロッパ諸国の音楽に触れさせるためでもありました。姉ナンネルと連弾をしたり、即興演奏や目隠しをしての演奏など、ヴォルフガングはその才能を余すところなく披露。演奏旅行は大成功で、神童ヴォルフガングの才能は行く先々で称賛の的でした。
旅は南ドイツの文化の中心であるミュンヘンから始まり、マンハイムやフランクフルトなどドイツ各都市を巡りました。そして、アーヘンを経てベルギーへ入り、1763年11月には華の都・パリに到着。ザルツブルクを出てから5カ月が経っていました。そして、パリでも大変な話題となり、大きな成功をおさめました。パリに5ヶ月も滞在した後は、海を渡りイギリスのロンドンを訪問。ここでも姉とともに御前演奏を行ない、国王ジョージ3世や王族の歓待を受けました。そして、すでに市民にも文化が浸透していたロンドンでは、多くの一般市民の前でも演奏する機会があり、演奏会にはたくさんの人が集まり、多くの入場収入を得ることができたのです。
そして、この長い演奏の旅を終えて、ようやく一家が故郷のザルツブルクに戻ったのは、1766年のことでした。すでに少年モーツァルトは10歳になっていました。
翌年、再びウィーンを訪問し1年4カ月も滞在した後、1769年冬からレオポルトはヴォルフガングを連れて、今度は南のイタリアへ向かいました。
18世紀のヨーロッパの音楽の中心はイタリアであり、イタリアは当時の音楽の本場でした。したがって、ヨーロッパ各国の宮廷ではイタリアから音楽家を招き、イタリア風の音楽が流行していました。モーツアルト一家のこれまでの演奏旅行先の宮廷でも、幅をきかせていたのはイタリア人の音楽家や演奏家だったのです。ヴォルフガングが音楽家としてもっと認められるためにも、イタリアでオペラなどのイタリア音楽を勉強し、箔をつけることが不可欠でした。
父子はミラノ、ボローニャ、ヴェネツィア、ヴェローナ、フィレンツェ、ローマ、ナポリなどの大都市を次々と巡り、イタリアを満喫。各地で称賛を得ました。そして、ローマでは教皇クレメンス14世から「黄金拍車勲章」という栄誉を授かりました。これは音楽家として最高の栄誉にあたり、少年モーツァルトは一流の音楽家の仲間入りをしたと認められたことになるのです。
父子は約1年半ぶりに一度ザルツブルクに戻りましたが、その後2年の間に2度もイタリアを訪問しています。ミラノで職を得ることを期待して滞在を延長したりしましたが、期待は外れ、その望みが叶うことはありませんでした。
父レオポルドの最大の目標は、この並外れた才能を持つ息子が自分以上の地位と名声を手に入れ、それにより家名を上げることでした。そして同時に、より良い就職先を求めるための旅行でもありましたが、どこの宮廷でも結局、職を得るには至りませんでした。しかし、イタリアでの豊かな音楽的経験はモーツァルトに大きな影響を与え、実りのあるもになったのには違いありませんでした。