17歳になった青年ヴォルフガングは、父と同様にザルツブルクの宮廷音楽家として、大司教に仕える身となりました。そんな中、1771年に父レオポルドに寛大だった大司教シュラッテンバッハが死去してしまいました。後任の大司教ヒエロニムス・コロレドはとても気難しい性格だったといい、モーツァルト親子がザルツブルクを離れて演奏旅行をすることを認めませんでした。そして、ザルツブルクにはオペラ劇場もなく、イタリアほか各地で吸収してきた音楽を開花させることのできる場所ではありませんでした。レオポルトも息子の才能を発揮させる場が必要だと焦る思いは同じでした。そして、1777年8月、大司教コロレドに辞職願いを提出します。
しかし、レオポルトだけは職に留まることになり、ヴォルフガングだけが喧嘩別れのような形で解雇されてしまいます。21歳のヴォルフガングはザルツブルクを離れ、自分で一人で職を探すことになったのでした。とはいっても、束縛から解放され、晴れ晴れとした気分でした。まだ大人に成りきれていない息子の気まぐれな性格を心配したレオポルトは、母アンナ・マリアを同行させました。
旅に明け暮れる少年時代を旅の中で過ごしたモーツァルトにはきちんと教育を受け、高い教養を身につける人間としての基本がおろそかになりがちでした。レオポルトは豊かな知識の持ち主であり、旅の中で音楽以外にも様々なことを息子に教えていたようですが、こういった偏った環境がモーツァルトの人格形成に影響を与えたのは否めませんでした。小さい頃からちやほやされて育っているため、自惚れが強くて自尊心も強いため、気位の高い宮廷人の中での上手に振舞うことができなかったのでした。
まずモーツァルトが向かったのは、ミュンヘンの選挙侯カール・テオドールの宮廷でした。ここでは丁重なもてなしを受けますが、あいにく空職はありませんでした。続いて、同じくカール・テオドールの宮廷のあるマンハイムへと向います。マンハイムには大きな期待を寄せていました。マンハイムでは芸術に造詣の深いカール・テオドールの庇護の下、高い水準の音楽家たちが集まっていたからです。彼らは「マンハイム楽派」と呼ばれ、古典派音楽が花開いていました。モーツァルトは結局ここでも職を得ることはできませんでしたが、この「マンハイム楽派」には大きな影響を受けました。
そして、マンハイムにてモーツァルトはアロイジア・ヴェーバーという16歳のソプラノ歌手に出会って恋をします。アロイジアの父はマンハイムの宮廷で声楽家で、アロイジアもなかなかの才能を持ったソプラノ歌手でした。しかし、これを知ったザルツブルクの父レオポルドは激怒して、早くパリに行って職を探すようにと息子に手紙を送ります。モーツアルトは旅先からアロイジアに熱い愛を語った手紙を送っています。本気の恋でした。
父に急かされ、仕方なく母とともにマンハイムからパリへ向かったモーツァルトでしたが、パリでの就職もうまくいきそうにありませんでした。以前は神童ともてはやされたモーツァルトでしたが、すでに大人になってしまった彼に、人々は昔ほどの関心を持たなかったようでした。そんな中でも、ヴォルフガングは従来の気ままな性格で上流社会での華やかな社交を楽しみ有頂天になりがちでした。しかし、母アンナ・マリアは不安定な生活に気が滅入るとともにホームシックにかかり、宿に引きこもりがちだったそうです。そして、そんな母が熱病にかかってパリで病死してしまいます。1778年7月のことでした。
突然の母の死にさすがのモーツァルトも失意のどん底でした。そして、ザルツブルクにいる父のショックが心配でした。そこで、一家の昔からの知り合いであるヨゼフ・ブリンガー神父に母の訃報を父に知らせてくれるよう手紙でお願いをしています。そんなところに父からザルツブルクに戻るようにとの手紙が届きます。ザルツブルク宮廷で職が空いて、レオポルトが宮廷楽長に就任するチャンスが生まれたのですが、大司教コロレドの出した条件がヴォルフガングのオルガニストとして復帰だったからでした。
しかし、ザルツブルクに復帰したモーツァルトは、またもや大司教コロレドと衝突します。コロレドは宮廷を離れるのをなかなか許しませんでしたが、1781年、選挙侯カール・テオドールから要請があり、モーツァルトは謝肉祭でオペラ『イドメネオ』を上演するためミュンヘンに赴きます。宮廷歌劇場で上演された『イドメネオ』は大成功を収め、選挙侯とミュンヘン市民の大喝采を浴びました。この成功に浮かれたモーツァルトはなかなかザルツブルクへ戻らず、3週間の滞在予定が3カ月を越えた時、大司教コロレドが怒りをつのらせ、滞在していたウィーンへと呼びつけます。そして、モーツァルトのウィーンでの反抗的な態度に、大司教との関係はさらに悪化。モーツァルトは辞職に追い込まれることなります。