グランドピアノ
18世紀のウィーン遠景
18世紀当時のウィーンの遠景
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
(1732−1809)

「古典派音楽の父」と言われるオーストリアの作曲家。特に交響曲、室内楽、ソナタなどの器楽の分野で古典派音楽の完成に大きな貢献をした。
1766年から90年までハンガリーの名門エステルハージ家の楽長を務め、この間に数々の交響曲、弦楽四重奏曲などを作曲した。辞職後は、ロンドンを2度訪問。1801年以降は余生をウィーン郊外で過ごした。
 なお、現在のドイツ国歌のメロディはハイドンの作曲したもの

モーツァルトの妻
コンスタンツェと2人の息子たち

初恋の人アロイジアの妹で、モーツァルトと出会った頃は歌手の卵だった。モーツァルトとの9年の結婚生活の中で6人の子供を出産し、2人が成長した。
 コンスタンツェは夫の死後、1809年にモーツァルトの崇拝者であるデンマークの外交官ニッセンと結婚し、夫ととも編纂した前夫モーツァルトの伝記を1828年に出版した。
 コンスタンツェは1842年にザルツブルクで80歳で没し、聖セバスチャン教会の墓地に眠っている。

←モーツァルトの2人の息子カール・トーマスとフランツ・クサーヴァー
弟のフランツ・クサーヴァーは父の後を継ぎ、音楽家の道を歩んだ。 モーツァルトの2人の息子は生涯独身だったので、モーツァルト直接の子孫は存在しない。
モーツァルトの息子たち
第3話 ウィーンでの新生活と結婚
     そして、音楽家としての華やかな活躍と生活の陰り

 こうして、1781年にザルツブルグと決別したモーツァルトは、すでに25歳。青年から大人に成長していました。家族と離れて一人ウィーンに定住することになったモーツァルトは、マンハイム時代に家族ぐるみで付き合いあったウェーバー家に間借りすることになりました。数年前に夫を失くしていたウェーバー夫人は、ウィーンで下宿屋を営んでいたのです。
 そして、初恋の人アロイジアはすでに結婚していましたが、その妹の三女コンスタンツェと愛し合うようになりました。その裏には、将来有望なモーツァルトと娘を結婚させようというウェーバー夫人の魂胆も見え隠れしていました。息子からの手紙でそれを知った父レオポルトは、評判の良くないウェーバー夫人に世間知らずの息子がいいように利用されているのを感じ取り、強く反対し続けました。しかし、そこはウェーバー夫人の方が一枚上手で、半ば強引に結婚話を進め、1782年8月ウィーンの聖シュテファン大聖堂で結婚式をあげました。モーツァルト26歳、コンスタンツェ19歳でした。
 そんな経緯があっても、若いモーツァルトとコンスタンツェの結婚生活はとても幸せなもので、翌年6月にはさっそく長男ライムント・レオポルトが誕生しました(2ヶ月後に早世)。その後も次々に子宝に恵まれ、コンスタンツェは9年間に6人出産しますが、度重なる出産は身体的にも金銭的にも生活を苦しくしたようです。2人の結婚が本当に幸せだったか、不幸だったかは微妙なものでした。
   
 この頃のモーツァルトは、ウィーンではピアニストとしてかなりの人気があり、度々開かれた演奏会は大盛況でした。演奏会や貴族の個人レッスンの合間を縫って、作曲活動をするという忙しい日々でした。フリーの音楽家として演奏会の実施やレッスン、オペラの作曲、楽譜の出版などで生計を立てていたのです。才能は認められていたものの、なかなか正式な宮廷音楽家としての雇用は叶わず、生活は不安定でした。
 モーツァルトの時代は、作曲家が自由に作品を作って発表するという状態には至っておらず、モーツァルトも芸術家というより「音楽の職人」でした。モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものだったのです。また、1984年には当時流行していたフリー・メースンに入会し、会のための作曲も手がけています。

 モーツァルトは何曲もの作品を同時に手がけ、おどろくべきスピードで作品を生み出していきました。旋律が浮かんでくると、楽器を使わずに頭の中で曲を組み立て、それを記憶しておいて、すごい勢いで音符にしていったそうです。楽譜数十枚にもなるオペラの序曲なども、数時間のうちに仕上げてしまったとか。ほとぼしる才能はとどまるところを知らず、神がかった美しい旋律が泉のように湧き上がってきたのでした。

  1985年2月、招きに応じてザルツブルクより父レオポルトがウィーンにやって来ました。自分の反対を押し切って結婚した息子夫婦とはしこりが残っていましたが、ウィーンでの息子の活躍ぶりにレオポルトも気を良くしたようでした。
 その当時、モーツァルトは前年からウィーンに滞在していた大作曲家ヨーゼフ・ハイドンと親交を深めていましたが、ハイドンはモーツァルトの父レオポルトに「神に誓ってもいい。あなたの息子さんは私の知る最も偉大な作曲家です」と語ったとされています。ハイドンはモーツァルトの作品に深い感銘を受け、その後、モーツァルトの最も得意とするジャンルであるオペラや協奏曲の作曲をほとんどやめてしまったとか、、、。
 ハイドンはモーツアルトより24歳も年上で親子ほど年は離れていましたが、お互いを音楽家として認め合い、一緒に弦楽器を演奏するなど有意義な時間を過ごしました。モーツァルトは、ハイドンの弦楽四重奏曲「ロシア四重奏曲」に応えて、6つの弦楽四重奏曲(ハイドン・セット)を作曲し、ハイドンに献呈しています。
 レオポルトはウィーンに2カ月ほど滞在し、満足してザルツブルクに帰っていったのですが、その2年後に68歳で他界。これが最後の別れでした。
 
 モーツァルトは音楽家としての地位を確かなものにするため、宮廷で職を得たいと願い続けましたが、当時のウィーンの宮廷音楽の中心はイタリア人音楽家たちでした。皇帝ヨーゼフ2世もモーツァルトの才能を高く評価していたものの、時の宮廷作曲家アントニオ・サリエリのオペラを愛好していたので、結局モーツァルトが宮廷で正式に職を得ることはかないませんでした。そして、サリエリの方もモーツァルトの豊かな才能に脅威と嫉妬を覚え、2人の間に何らかの確執があったとされています。
 モーツァルトの死後、ウィーンの新聞でモーツァルト毒殺説が掲載され、後世、この2人の確執は大変有名になりました。当時モーツァルトの周囲の人間で毒殺を信じていていた者はいなかったようですが、1820年ごろになってウィーンでサリエリによるモーツァルトの毒殺説が流行しました。この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』や『アマデウス』などの作品が作られ、最近では映画にもなって世界的にヒットしたのは記憶に新しいところです。
  

モーツァルトの肖像 Wolfgang Amadeus Mozart
モーツァルト
聖シュテファン寺院
▲モーツァルトとコンスタンツェが結婚式をあげたウィーンの「聖シュテファン大聖堂」
フィガロハウス界隈
▲ウィーンでモーツアルト夫妻が住んでいたフィガロハウス界隈。夫妻はウィーン内で10回以上も転居したと言われている。
どらまちっく・ひすとりー