モーツァルト最後の肖像画
―THE END―
↑オペラ『ドン・ジョバンニ』を完成させたプラハ郊外のヴィラ・ベルトラムカ。今はモーツァルトに関する博物館になっている。
コシファン・トゥッテ楽譜
『コシ・ファン・トゥッテ』の楽譜

革命前のフランス社会を風刺していると言われるこの作品は、ヨーゼフ2世の依頼、もしくは提案により作られた。しかし、1990年1月の初演時にはヨーゼフ2世は病の床についていて、鑑賞することはできなかったという。後に不道徳さが取り沙汰され、歌詞が大幅に変更されているという。


モーツァルト風船 モーツァルト子供服
モーツァルト・スピリッツ 2006
モーツアlルト銅像
聖マルクス墓地の記念碑 ★聖マルクス墓地のモーツアルト記念碑

モーツアルトが最初に埋葬されたとされる墓地。緑豊かな住宅街のにありレンガ造りの門を入って、並木道を歩いたところにある。
ウィーン中央墓地の記念碑 ★ウィーン中央墓地にあるモーツァルトの記念碑

墓地の中でも著名人の集まる地区にある。著名音楽家の墓の集まる32Aの中でもモーツァルトの記念碑には特に多くの花束が添えられる。
モーツアルト像 ★王宮庭園に建つモーツアルト像

像の前に植えられている季節のト音記号が音楽の都らしい。
第4話 たくさんの優れた作品を意欲的に生み出すものの 、
       失意のうちに病に倒れ、35歳で永遠の眠りにつく

         

 モーツァルトは、不遇な中にも晩年の5年間にたくさんの傑作を生み出しています。1786年に『フィガロの結婚』を初演し大ヒット。そして翌年には『ドン・ジョバンニ』、1790年に『コシ・ファン・トゥッテ』を初演します。そして、1788年には3大交響曲と呼ばれる第39・第40・第41のシンフォニーも作曲しており、モーツァルトの作曲家としての円熟期とも言える時期を迎えます。
 しかし、生活のためもあって精力的に作品を生み出していたものの、モーツァルトの人気には陰りが見られます。モーツァルトの生み出す音楽は、あまりに時代の先を行き過ぎて、なかなか理解されづらくなっていたのです。ピアニストとして人気は高く、演奏会を開けば喝采を得ることはできたものの、晩年の数年間はその収入も減っていました。
 あいにく、モーツァルトが得意としたオペラの作曲は、当時あまり収入には結びつくものではありませんでした。そして、モーツァルトの才能を高く評価していた皇帝ヨーゼフ2世が1990年に崩御したことも痛手でした。生活は楽ではなかったようで、親しい友人などに借金を求める手紙を度々書いており、金策に追われていたようです。
 また、 生活が困窮した原因は、夫婦揃って金銭感覚が欠如していたことがあげられます。モーツァルトは元来が陽気な性格でしたが、パーティやダンスや悪ふざけが大好きで、せっかく得た収入もあっという間に使ってしまっていました。この頃、妻のコンスタンツェはリューマチを患っており、バーデンなどでの療養の費用も必要でした。そして、そんな荒れた生活の中、モーツァルト自身の身体にも徐々に蝕まれ、異変が見られるようになります。
 
 興行師エマニュエル・シカネーダーの依頼により、オペラ『魔笛』を作曲したのはこの頃です。9月にはウィーン郊外のヴィーデン劇場で初演され、次第にその反響は大きくなりました。一般大衆向けの劇場で、宮廷でのオペラ上演とは違った雰囲気の中、この新しいオペラ『魔笛』は多くのウィーン市民を熱狂させました。
 そして、死の直前に自宅に現れた謎の人物より依頼を受け、ミサ曲『レクイエム』の作曲に取り掛かります。この謎の男は、映画『アマデウス』では仮面をつけたサリエリとされていますが、ある貴族が妻の追悼のために内密に依頼したものという説が有力です。とはいえ、モーツアルトは、この謎の人物を死神の化身ように受け止め、依頼されたレクイエムを自分のための追悼曲のように思い込み、精神的にも追いつめられていったのです。
 また、1791年7月にはボヘミアの三民議会からプラハで行なわれる新皇帝レオポルト2世の戴冠式のためのオペラの依頼を受けました。モーツァルトにとっては久々の晴れがましい仕事でした。一時『レクイエム』の作曲を中断し、9月の式典の前日になんとか『ティトス帝の慈悲』を書き上げました。しかし、病状の悪化は激しく、この頃には弟子のジュスマイヤーの手助けが必要な状態になっていました。プラハで上演にも立会いましたが、反響はいまひとつの残念な結果でした。
 
 1791年11月20日ごろから失神や嘔吐、手足の硬直とむくみが激しくなり、ついにモーツァルトは危篤に陥ります。そして、12月5日の0時55分、モーツァルトは35歳の若さで眠りにつきました。葬儀は翌日、聖シュテファン大聖堂内の十字架小礼拝堂で執り行なわれました。葬式に参列する身内は一人もおらず、さみしくウィーン郊外の聖マルクス共同墓地に葬られたといいます。それは、モーツァルトがすべての人に忘れられた存在だったからではなく、当時、啓蒙君主の皇帝レオポルト2世が出した葬儀の際の儀式を禁じる命令も関係しているようです。
 いかなる事情があったにせよ、天才音楽家の人生の最後は大変寂しいもので、共同墓地に埋葬されたためにモーツァルトの遺骨は行方不明になってしまいました。現在、ウィーンの聖マルクス墓地にある「モーツァルトの墓」には遺骨はなく、またベートーベンはじめ多くの音楽家の墓の集まるウィーン中央墓地の名誉区にもモーツァルトだけは記念碑だけとなっています。

 こうして後世に残る天才音楽家モーツァルトは、不遇のうちに人生を終えました。その短い35年の人生のうち3分の1を音楽旅行に費やし、700曲以上の作品を書き残しました。生前は高い才能は認めながらも正当に評価されていたとはいえませんでしたが、皮肉なことに、モーツァルトの死後、その名声は急速に高まりました。
 プラハでは早くもその月の14日には追悼の荘厳ミサが取り行なわれて、多くの人が集まって、その死を惜しみました。ウィーンでも『魔笛』を始めモーツァルトのオペラが数多く上演され、その名声は年々高まりました。そして、モーツァルトの故郷ザルツブルクでもまた、モーツァルトの功績を讃える動きが盛り上がりました。時を経るに従って、高い芸術性を持ったモーツァルトの音楽への評価は確実なものになっていったのです。

 2006年、モーツアルトの生誕250年に当たる記念すべき年でした。ウィーンをはじめモーツアルトゆかりの地では数々の記念イベントが催され、また世界各国でもそれぞれ記念イベントが実施されるなど盛り上がりをみせました。
 神が生んだ天才モーツアルト――。死後200年の時が過ぎ去った今でも彼の生み出した美しい旋律は世界中の人々から変わらず愛され続けています。 そして、、、 これからも、ずっと永遠に。

モーツアルトと楽譜 Wolfgang Amadeus Mozart
モーツァルト
どらまちっく・ひすとりー