フランスの輝ける絶対王政の絶頂期を生み出した太陽王ルイ14世、、、。その華やかな77年の人生の中で、何人かの美しい女性を愛し、様々な愛のドラマを演出しました。そんな中にあって、その偉大な王と秘密結婚をあげ、後半生を添い遂げた女性がいました。知性と気品はありましたが、けっして色香で男性を惹きつけるタイプではありませんでした。
 愛憎渦巻く宮廷の中で、年を重ねて人間としての魅力を増していったマントノン侯爵夫人、、、。もしできることなら、一度会ってその人となりに触れてみたいと思わせる女性です。
ニオールの城こと監獄(↑)と街並み(↓)

        サロン


 当時、宮廷や貴族の邸宅を舞台にした社交界を「サロン」と呼び、主催者である主人が文化人、学者、作家らを招いて知的な会話を楽しんだ。
 フランスのサロン文化の直接の先駆となったのは17世紀前半にランブイエ公爵夫人の開いたサロンだった。一流の詩人、貴族たちが集うオテル・ド・ランブイエはパリ第一の社交場となり、エスプリや洗練された趣味を競う文化は後のサロンの手本となった。
 フランスのサロン文化は、ルイ14世の時代にヴェルサイユ宮殿中心にさかんになった。当初は貴族が中心だったが、その後、多くの上流夫人たちがこぞってサロンを主催するようになり、18世紀にはパリがサロン文化の中心となった。
 サロンの主催者は競い合って一流の文人や思想家を招き、親交を深めたが、このようなサロンから生まれた自由な思想が自由な市民の社会をめざすフランス革命へと発展していった。


ラ・ファイエット夫人 ラ・ファイエット夫人
ラファイエット伯爵と結婚後、パリにてサロンを開く。ルイ14世の母后アンヌ・ドートリッシュに仕え、サロンの花形になる。「クレーヴの奥方」の著者として知られる。



若き日のマントノン夫人

 
マントノン候夫人肖像
 1635年11月、のちのマントノン侯爵夫人、「フランソワーズ・ドービニェ」がポワトゥ地方のニオールの町の城で生まれました。城といっても、そこは監獄でした。
 誕生したのが監獄?  なぜ? なんとフランソワーズの父コンスタンスは前妻を刺殺した殺人犯として投獄されていたのです。コンスタンスは放蕩ものの悪人で、それ以外にも賭博や詐欺、窃盗など様々な罪を犯していました。彼は生まれ故郷のニオールの監獄に入る前も、パリやラ・ロッシュ、ボルドーなどいくつかの監獄をたらい回しにされましたが、それでも死刑になることがなかったのは、彼がそれなりの家柄の出身だったからでした。
 ドービニェ家はニオールの町の名門であり、コンスタンスの父アグリッパ・ドービニェは宗教戦争の折、フランス王アンリ4世と共に闘った勇将として名を馳せ、詩人としても有名な人物でした。いわばニオールの名士だったのです。そして、まぎれもなくフランソワーズの父・コンスタンスは不肖の息子でした。
 なんと、当時、身分ある人物は受刑者であっても家族を監獄内で住まわせることが可能でした。コンスタンスが故郷ニオールの監獄を希望したのは、その監獄長バラベールが友人であり、地方総督の地位にもあった人物であったから。そして、多少の賄賂で比較的自由に暮らすことができたのです。こうして、囚人コンスタンスは後妻ジャンヌ・ド・カルディヤックとの結婚生活を獄中で送り、監獄内でフランソワーズは産声をあげたのでした。
  その後、フランソワーズは2歳まで監獄内で育てられましたが、そんな環境は子供の成長に良いはずはなく、その後は父方の叔母に引き取られてミュルセーのヴィレット家の館で暮らしました。そして、宰相リシュリューの死の恩赦と友人である総督バラベールの働きかけで、父が20年ぶりに釈放されたのは1642年、フランソワーズが7歳の時でした。経歴から見る限り極悪人である父との生活が、少女フランソワーズにとって幸せであったかは定かではありませんが、一時期は父母と2人の兄と西インド諸島の島に渡るなど、一家で暮らす平和な時がしばらく訪れたのでした。
 しかし、それから5年後、フランソワーズは父と兄を同じ年に失うという不幸に見舞われています。やがて母親ジャンヌも死去し、フランソワーズは修道院で暮らします。誕生から幼少期、そして少女期の多感な時期に、人とは違った人生の荒波に揺さぶられていたのでした。この時期の人生経験や修道院での生活が、フランソワーズの人格の形成や信仰の深さに大きな影響を及ぼしたのは言うまでもありませんでした。その後、フランソワーズはパリに住む叔母の元で暮らすことになるのですが、やがてここで彼女の人生は大きな転換を迎えることになるのです。

 
 1652年、まだ若い17歳のフランソワーズは、作家で詩人のポール・スカロンと結婚しました。フランソワーズはパリでサロンに出入りするようになり、そこで知り合ったです。スカロンは当時42歳。フランソワーズとは親子ほど年が離れており、身体も不自由で風采もけっして良いとはいえませんでしたが、なんといっても当代随一の人気作家でした。フランソワーズがスカロンの人柄にひかれて父親の面影を求めたのか、生活が豊かとはいえなかったので「玉の輿」と思ったのかははっきりわかりませんが、夫スカロンはうら若いフランソワーズを妻というより娘のように慈しんだそうです。
 スカロンの文学サロンには、当時高名だったダルブレ元帥、スウェーデン王妃、女流作家のラ・ファイエット夫人、スキュデリ女史など著名人が集い、活気に満ちていました。フランソワーズは、こういった洗練された恵まれた環境の中で、より教養豊かで魅力的な女性へと成長していったのです。そして、スカロン夫人として次第に上流社会にも認識されていったのでした。
フランス国王ルイ14世と秘密結婚をした無冠の王妃の波乱の人生と                    太陽王をめぐる美しき女性たちの宮廷愛憎劇
第1話. ニオール監獄での誕生から苦難の連続の少女期
            、、、そして「スカロン夫人」と呼ばれるまで
マントノン侯夫人
カール5世A