BOOK
BOOK 『殺人の四重奏』
★殺人の四重奏
   ―クラシックミステリー
華麗なる殺人。甘美なその旋律…。ルイ14世からマリー・アントワネットまで、宮廷文化が花開くパリを舞台に、女たちの愛と憎しみが引き起こす4つの惨劇を描く短編集。『小説すばる』掲載作品をもとに、加筆・修正。
◆寵姫モンテスパン夫人の黒ミサ◆詐欺師マドレーヌの復讐◆公爵令嬢アユーラのたくらみ◆王妃マリー・アントワネットの首
ベルサイユの華麗な宮廷生活をもっと知りたいあなたにおすすめ!
ベルサイユの街歩き NHK世界遺産100
★ベルサイユのばらの街歩き 単行本 ★NHK世界遺産100〈第2巻〉ヨーロッパ2―ベルサイユ宮殿と庭園(フランス)ほか
マントノンの城館 遠景
マントノンの城館 正面
マントノンの城。パリ南西70kmのマントノンの町にある。堀池のすぐ近くに川が流れ、少し離れた所に古い水道橋もある。今も残る城はマントノン夫人が改築されたもので、1698年に姪のフランソワに結婚祝いに譲っている。
マントノン侯爵夫人の肖像
マントノン夫人の肖像
フォンタンジュ嬢 フォンタンジュ嬢

マリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ

あまり聡明だとはいえなかったそうだが、天使のような美しさを持つ美少女だったという。若干20歳ではかなく死去
「モンテスパン夫人と子供たち」
↑モンテスパン侯爵夫人とその子供たち
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 嫉妬深いモンテスパン夫人に辟易していたルイは、新しい愛人フォンタンジュ嬢に夢中でした。たくさんの高価な贈り物をし、まだ20歳前の少女に伯爵夫人の称号も与えました。フォンタンジュ嬢はやがてルイ14世の子を妊娠しますが、流産します。そして、ひどい出血が続き、身体が異様にむくみ、顔は倍に膨らみ、ただならぬ病状が彼女を襲います。宮廷から退いて修道院にその身を移しますが、回復することなく半年後に息を引き取りました。まだ20歳の花盛りの死でした。
 このフォンタンジュ嬢の異常な死には、モンテスパン候夫人がかかわっているのではないかと噂されました。「毒殺」です、、。モンテスパン候夫人も顧客となっていたラ・ヴォアザンは堕胎や毒薬の販売を行なっていました。折りしも、その前年の1679年には「黒ミサ事件」と呼ばれる事件が世を騒がせたばかりでした。
 黒ミサは当時の裏の世界で流行したものですが、魔術師ラ・ヴォアザンの黒ミサに正式に参加できるのは、悪魔との契約に署名した者のみ、非常に怪しげで危険なものでした。そして、悪魔に嬰児の遺体を生贄に捧げ、全裸になって祭壇に横たわるというというおぞましい儀式も行なわれていることが明らかになりました。逮捕されたラ・ヴォアザンの自宅の庭からは何千もの嬰児の遺体が見つかり、世間に強い衝撃を与えました。
 そして、押収された顧客リストには、モンテスパン侯爵夫人ほか身分の高い貴族が顧客としてたくさん連なっており、宮廷を巻き込む大スキャンダルとなりました。切羽つまったモンテスパン夫人は、高貴な身分ながらイチかバチかでそんな怪しげな魔術を頼りにしていたのです。
 国王ルイ14世は事態を重く受け止め、厳重に処罰を下しました。リストに名のあった者のうち何人かは火あぶりの刑などの厳しい処罰を受けましたが、さすがに王の子の母であるモンテスパン侯爵夫人はお咎めなしにするしかありませんでした。しかし、その権威と信頼は完全に失墜したのでした、、。

 「黒ミサ事件」「毒薬事件」に強いショックを受け、国王ルイは以前と変わりました。王妃にもこれまでにはない夫婦としての愛情を示すようになり、そして、前にも増して心の安らぎをマントノン夫人に求めるようになりました。そのマントノン夫人の影響もあり、信仰心に目覚め、心安らかな落ち着いた生活を望むようになったのです。
  慣れない宮廷生活、そして自己中心的で気性の激しいモンテスパン侯爵夫人にとまどいを感じるスカロン夫人に、温かく接してくれたのは心優しいルイーズでした。そして、教養も高く常に優しさに満ちたスカロン夫人の人柄に、王妃マリー・テレーズも次第に信頼を寄せるようになります。そして、国王ルイ14世も、自分の子供達に深い母性愛を注ぐスカロン夫人に、次第に信頼を寄せ安らぎを感じるようになっていったのでした。
 子供達の実母モンテスパン侯爵夫人は、王の寵愛を得ることには熱心でしたが、子供は生みっぱなしで、子供の養育はすべてスカロン夫人に任せっきりでした。長男のメーヌ公が高熱を出し、スカロン夫人が懸命に看病していた時、モンテスパン侯爵夫人は賭博に熱中していたのでした。そんなモンテスパン夫人の姿勢に国王は頭をひねり、次第に心が離れていったようです。国王ルイは、次第にいつも穏やかで教養高く、信仰心の厚いスカロン夫人の元を訪れて語るひとときに安らぎを感じるようになりました。幼い頃より君主として自立を求められたルイは、母親に甘える機会が少なかったこともあり、母性の強いスカロン夫人に亡き母アンヌ・ドートリッシュの姿を重ねたのかもしれません、、、。


 そして1674年、ルイ14世はそれまでのフランソワーズの働きぶりに報いて20万リーブルを与えました。そのお金でマントノンの町に領地と城を買い、それからほどなくして、スカロン夫人ことフランソワーズ・ドービニェは「マントノン夫人」と呼ばれるようになりました。これには王のスカロン夫人への愛と感謝の思いが込められていました。そして言うまでも無く、単なる養育係に対する王の過分の計らいに、モンテスパン侯爵夫人は、大いに不快感を示したのでした。
 
 そして、この年、王の寵愛を失って長い間思い悩んでいたルイーズは、ついにカルメル会修道院に入ることを決心しました。あまりにか細く繊細なルイーズは、愛憎うずまく宮廷での生活から逃れ、神に救いを求めることにしたのでした。カルメル会とは、戒律の厳しいことで有名な修道院です。
 これを知ったモンテスパン侯爵夫人は、ルイーズがそんな戒律の厳しい修道院に入るとなると、ルイーズに同情が集まり、自分への反感が増大すると考え、焦りをつのらせました。そこで、モンテスパン侯爵夫人は、マントノン夫人にルイーズのカルメル会修道院行きを思いとどまるように説得するように命じたのでした。マントノン夫人は、心優しいルイーズが戒律厳しい修道院に入るということを心配し、彼女の身を心の底から案じていました。様々な説得を試みましたが、ルイーズの決心が揺らぐことはありませんでした。
 かつて太陽王ルイ14世の愛を独り占めした伯爵夫人ルイーズ・ド・ラヴァリエールは、当時30歳。スール・ド・ラ・ミゼットという新たな名を与えられて、信仰と祈りに明け暮れる別の人生を送ることとなったのです。
 
 そして、国王の寵愛を思いのままにしてきたモンテスパン夫人の権勢にもこの頃から陰りが見られるようになりました。まず、国王ルイは、カトリック教会から心良く思われていなかったモンテスパン候夫人を教会からの助言に従い宮殿の外の館に移して遠ざけたのでした。
 妖艶な魅力で王を虜にしてきた彼女も30代後半になり、度重なる出産によって少しずつ容姿の衰えてきたのは仕方のないことでしたが、若さへの嫉妬は並々ならぬものがありました。宮廷には若くて美しい女性がたくさん存在しており、彼女たちの誰かにいつ国王の心が移らないかと心配でたまらなかったのです。ある時、若くて美しい女官をすべて解雇し、かわりに年配の容姿は問題にならない女官を雇ったりしたのは、彼女の若さに対する恐怖の表れに他なりません。こういった焦りもあって、彼女はますますヒステリックになり、行動も常軌を逸するようになったのでした。

 そして、恐れていたことが起きました、、。国王ルイが、若くてすらりとした18歳の美少女に心を奪われてしまったのです。
 
マントノン候夫人
第3話. 王の計らいで領地と「マントノン夫人」の名もをる
       衝撃の黒ミサ事件などでモンテスパン夫人の権威失墜!
ロゴ
マントノン夫人 B