晩年のルイ14世→
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←ルイ14世の曾孫アンジュー公の幼少期。ルイ14世の死後、ルイ15世として即位した。 |
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▲ルイ14世の初孫ブルゴーニュ公の誕生 |
1683年、王妃マリー・テレーズが病死します。結婚してからも、ずっと他の女性を愛してきたルイですが、国王として正式な妻である王妃をないがしろにしたことはありませんでした。王妃マリー・テレーズは夫であるルイだけをひたすら愛してきたので、そんな妻の想いを振り返ると涙が止まりませんでした。ルイ14世はいじらしい貞淑な妻を失なってショックを受け、自責の念に打ちのめされました。そして、そんなルイの心を芯から理解して、心の支えになったのは落ち着いた大人の優しさを持ったマントノン夫人なのでした。
王妃の死の翌年、国王ルイ14世とマントノン侯爵夫人は秘密結婚をしました。夫ルイは46歳、マントノン夫人は3歳年上の49歳でした。身分の違いもあり、公にはできませんでしたが、国王ルイは神の前でマントノン候夫人こと、フランソワーズ・ドービニェとの愛を誓ったのでした。
この秘密結婚の噂が流れると、輝く太陽王がどこかの国の王女でもない、年上の女官と結婚したとあって、宮廷の人々はただ驚くばかりでした。そして、最もショックを受けたのは、まぎれもなくモンテスパン侯爵夫人でした。若さにばかり嫉妬していたのに、全く若くもない自分の雇っていた養育係が、公ではないはいえ、王妃の座に座ることになったのは信じられないことであり、完全な敗北を味わったのでした。2人の「フランソワーズ」の立場は、ここで完全に逆転したのでした、、。
モンテスパン夫人は苦々しい思いを抱き続けながらも、それから数年、宮廷にとどまりました。完全に王の寵愛は失ったものの、王の子を6人も出産した女性には、それなりの待遇を与えられたのです。そして8年後の46歳の時、無念の思いを抱きながら修道院に身を引いたそうです。王は、夫人の気が変わらぬように、すぐさま部屋を別の者に与えたとか、、。
当時のフランスは対外的にも問題を抱えた時期でした。1702年にスペイン継承戦争が起こった際の苦境にも、じっと王を支えたマントノン夫人にルイ14世は誰よりも信頼を寄せました。マントノン夫人は、王から内政・外交について助言を求められるようになり、政府の閣僚や軍の司令官の任命などについて発言するようになりました。1685年にルイ14世が、新教徒の信仰の自由を認めた「ナントの勅令」の廃止を公布したことは、敬虔なカトリック信者だったマントノン夫人の影響だとみられており、これによりフランス国内の多くの新教徒が国外に逃れていったといいます。
良識を持って王を導いたといえ、マントノン夫人が宮廷の第一の夫人として力を持つことは、宮廷内では快く見られていませんでした。身分の高い貴族たちは、自分たちの偉大な王がマントノン夫人の言いなりになっているようにみえるのが口惜しく、陰でいろいろな悪口をささやいていたのです。
また、華やかなことを好んだ国王ルイがマントノン夫人の影響を受けて、質素な落ち着いた暮らしぶりになったことも人々は物足りなさを感じました。王のご機嫌を取り、自身の栄達をはかるのが務めだったのですから、彼らは行き場を失ってしまったのです。何千人の宮廷人の暮らすヴェルサイユには以前のような華がなくなり、人々は窮屈に感じるようになったのでした。
太陽王と呼ばれたルイ14世も、その晩年は数々の不幸に見舞われました。王には亡き王妃との間に6人の子がいましたが、無事成長したのは長男の王太子のみでした。王太子は父ルイ14世に比べると凡庸でしたが、気さくな温かい性格で芸術にも造詣が深く、人気がありました。しかし、その王太子は突然、天然痘にかかり命を落としてしまいます。その亡き王太子には3人の男の子があり、次の跡取りは王太子の長男ブルゴーニュ公となります。
ブルゴーニュ公は15歳の時にサヴォイア王女のマリ・アデライドと結婚していましたが、年老いた国王ルイは愛らしいマリ・アデライドを実の孫のように可愛がっていたといいます。しかし、王太子を亡くした翌年、ルイはこの若き公妃と次の王位を継ぐべきブルゴーニュ公を続けて亡くしています。ルイの死後、ルイ15世として即位したのは、ブルゴーニュ公夫妻の3人の息子のうち三男のアンジュー公でした。ルイ14世の曾孫にあたります。
太陽王ルイ14世の治世下で絶対王政の絶頂期を迎えたフランスは、スペイン継承戦争などの対外戦争で財政困難に陥り、飢饉により慢性的な食料不足に悩み、下降線をたどっていました。そして、ルイ14世自身も最愛の人を次々と失うという たくさんの悲しみの中で最後の時を迎えました。
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▲晩年のルイ14世と家族の肖像 |
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1715年、ルイ14世は77歳で死去しました。最後に言った言葉は、マントノン夫人に向けての「私はずっとあなたを愛し続けている。この世の心残りは、あなたのことだけだ、、、」というメッセージだったそうです。
王の危篤を知るとマントノン夫人はひたすら祈りを捧げ、そして、王の死の後は何日も食事が喉を通らず見ていられないほどの落胆ぶりだったそうです。そして、それまで毅然とした優雅さを保っていたマントノン夫人は急に老け込み、生気を失ってしまったとのことでした。マントノン侯夫人は、自分の生い立ちからか、貧しい貴族の子女のための女子学校をサン・シールに開いていましたが、そこに引きこもって祈りの日々を送りました。
そして、ルイ14世の死から4年後の1719年、このサン・スーシ学院の一室で静かに息を引きとりました。ニオールの監獄での誕生から波乱続きでしたが、84年という当時としては長い人生を全うしたのでした。
「朕は国家なり」と高らかに語り、フランス絶対王政の絶頂期を生み出した太陽王ルイ14世の無冠の王妃は、その控えめな人柄から歴史上に華やかな記憶は残しませんでしたが、燦然と輝く太陽王の後半生約30年を穏やかなものにし、そして支え続けたのでした。
第4話. ついに太陽王との秘密結婚でベルサイユの第一の夫人に。
そして、したたかに支え続けた30年の静かな愛、、、。
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フォンティーヌブロー宮殿
パリの南、鉄道で1時間ほどの場所にある森に囲まれた静かな宮殿。歴代の王、そして皇帝ナポレオンにも愛された歴史ある宮殿で、ルイ14世とマントノン候夫人も好んで滞在した。「マントノン夫人の住居棟」と呼ばれる区画が今も残っている。 |
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ヴェルサイユの広大な庭園の中にある私的な宮殿グラン・トリアノン。静かな暮らしを望んだマントノン夫人もここがお気に入りでした。 |