ライオンの中庭の柱
@ライオンの中庭の柱
リンダナハの出窓
Aリンダラハの出窓
★ カルロス5世宮殿 ★
カルロス5世宮殿外観
 16世紀初めにカール5世(カルロス1世)が宮殿の南側に隣接して造らせた正方形のどっしりした建物。円形の中庭を囲んで2階建ての回廊があり、1階はドーリア式、2階はイオニア式。カール5世がイスラム建築に対抗して造らせたというが、アルハンブラの中では浮いているかんじは否めない。
カルロス5世宮殿の内側
1階は「スペイン・イスラム美術館」、2階はアルハンブラの工芸品などを展示する「県立美術館」として使用されている。 また、毎年夏、中庭では「グラナダ国際音楽舞踏祭」が開催される。 
★リンダラハの中庭

囚われの身の二姉妹ソライダとリンダラハが、リンダラハの出窓からこの中庭を見下ろしたという伝説から、この名で呼ばれる。中央の小さな噴水を中心に、幾何学模様に整えられたこじんまりとした庭。
パルタルの庭
★パルタルの庭

リンダラハの中庭より東側の他とは独立した場所にある。池と南国チックな緑に囲まれたリゾート的な雰囲気。「パルタル」とは、「屋根つきの柱廊」という意味。正面に見えているのは「貴族の塔」。
諸王の間 「二姉妹の間」の八角天井
    B諸王の間      C二姉妹の間の八角天井
二姉妹の間
↑ライオンの中庭の向こうに見える「二姉妹の間」は2階建ての寵妃のための館。
 
ライオン宮
★ ライオンの中庭 ★
Patio de los Leones
アルハンブラ宮殿の象徴ともいうべきなのが、「ライオンの中庭」。12頭のライオンの口から水が流れる円形の「ライオンの噴水」が中央にあるため、この名前がつきました。
 この庭を囲むライオン宮は王の居住スペースで、王以外の男性は立ち入り禁止のハーレムでした。
 中庭は124本の細い大理石の柱に囲まれ、柱の上部の
アーチ部分@は非常に細微な漆喰細工が見事。
★ ライオン宮 ★
 ライオンの中庭を囲むいくつかの部屋を総称して「ライオン宮」と呼ばれます。

 
「二姉妹の間」Cと「アバンセラッセの間」は丸天井のモカラベに特徴があります。「モカラベ」とは天井を覆う無数の鍾乳石状の繊細な装飾のこと。
 16角天井が見事な「アベンセラッセの間」は、豪族だったアベンセラッセ一族がここでグラナダ王国最後の王ボアブデルに惨殺されたという伝説にちなんで、その名がつけられました。
 
「諸王の間」Bは鍾乳石づくりのアーチによって美しい空間つくり出している王の居住スペースで、3つの寝室につながっており、天井の10人の王の姿が描かれた天井画も見所の一つ。

 そして、 「コマレスの中庭」と「ライオンの中庭」の間には天井の星型の採光孔が珍しい「王の浴室」があるほか、「二姉妹の間」の奥にある
リンダラハの出窓Aの美しい装飾も見ごたえ十分。出窓からはリンダラハの中庭が見渡せます。
コマレスの塔の内部
コマレスの塔外観 外側から見た「コマレスの塔」

★ アラヤネスの中庭 と コマレスの塔

Patio de los Arrayanes & Torre de Comares
アラヤネスの中庭
 「メスアールの間」から続く、「アラヤネスの中庭」は南北35m、東西7mの大きな長方形の池。天人花(アラヤネス)の植込みがあることから名付けられた。
 写真正面は「コマレスの塔」。入口を入ると、「大使の間」と呼ばれる諸国の大使などとの謁見に使用された宮殿で一番広い部屋がある。天井・壁面・窓などあらゆる場所に装飾がなされて圧倒される。

★ メスアールの間 ★

 
Sala del Mexuar
天井装飾
壁装飾
メスアールの間
メスアールの中庭
↑「メスアール(政庁)の間」は、王の政務や裁判が行なわれていたが、後に礼拝に使用されるようになった。壁面はアラベスク模様が描かれているほか、様々な装飾がなされている。右上は天井装飾、右下は壁面装飾。この部屋の装飾は、後のキリスト教時代に改装されている。


←メスアールの間に続く「メスアールの中庭」。正面に見えるのは「コマレス塔」への入り口。

 作家ワシントン・アービングの『アルハンブラ物語』と名曲『アルハンブラの思い出』の切ないメロディーにより、哀愁に満ちた魅力で知られるアルハンブラ。この地に拠点を置いたイスラム国家により造営されたイスラム建築の最高傑作で、グラナダの街の南東部にある小高い丘の上にその幻想的な姿を横たえています。
 「アルハンブラ」とは「赤い城」の意味で、白を基調とする宮殿がそう呼ばれるようになったのには諸説ありますが、宮殿を増築する際に夜を通してかがり火を燃やして工事をしたため、グラナダ平野から見上げた宮殿が赤く染まって見えたことから、このように呼ばれたという説が一般的です。

 アルハンブラ宮殿を建てたナスル朝グラナダ王国は、イベリア半島最後のイスラム国家で、13世紀のムハンマド1世の治世の頃に造営がスタートされました。最初に手が付けられたのは丘の西側の城塞アルカサバで、それから170年の間に宮殿の公的部分、プライベート部分、塔、庭園などが少しずつ建築されていきました。最も宮殿が大きな変貌を遂げたのは、ユースフ1世とその息子のムハンマド5世の時代です。

 繁栄を誇ったグラナダ王国も末期になると内紛が絶えず、次第に勢力は衰えていきますが、キリスト教国スペインによるレコンキスタに耐えられず、1492年についにグラナダは陥落。その後は、グラナダは新たにこの地を治めることになったスペインが派遣する城代に管理されることとなるのですが、16世紀からアルハンブラは数々の受難が続きました。
 カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)の命によるカルロス5世宮殿の造営のために宮殿の一部は破壊され、また火薬庫の爆発などにより、いにしえの優美な姿を失いました。
 『アルハンブラ物語』の作者であるアメリカ人ワシントン・アーヴィングが1826年にグラナダの街を訪れた時、アルハンブラ宮殿は半ば廃墟のような状態であったそうです。『アルハンブラ物語』は、アルハンブラとグラナダの歴史を中心としたロマンチックな物語で、アーヴィングは1ヶ月の間、アルハンブラに滞在して物語を書き上げました。この物語が発表がされると、アルハンブラ救済の声が湧き上がり、19世紀半ばに王室の命令で大規模な修復が行なわれたのです。今日のアルハンブラがあるのは、ワシントン・アーヴィングの功績であるといえるかもしれません。
 見事に甦ったアルハンブラ宮殿は、それから世界中の人々の憧れの場所となり、一時はさびれていたグラナダの街も活気を取り戻しました。
 敬虔なカトリックの国スペインには、長いイスラム統治の面影が至るところに残っていて、それがスペインの独特の雰囲気を醸し出していますが、アルハンブラ宮殿は独特なスペイン文化の象徴として貴重な文化遺産となっています。

★アルカサバ (城塞)   キリスト教徒によるレコンキスタに備え、9世紀にはすでにこの場所に城塞が築かれていた。その城塞を13世紀にムハンマド1世が大改築させた。今はほとんど跡しか残っていない。
 写真は、ベラの塔(夜警の塔)から見たアルカサバ。この塔からは、ヘネラリーフェをはじめグラナダの全景をパノラマで見渡すことができる。
アルカサバ
  
アルハンブラ宮殿
アルハンブラ宮殿
Palacio de la Alhambra
ライオンの中庭