稜堡より市街のパノラマ
ケーブルカー
キューエンブルク稜堡 ★キューエンブルク稜堡

古い稜保が崩れたので、1681年に大司教キューエンブルクによって改築された大規模な稜堡。
稜保の後部の壁は11〜12世紀に建てられた部分で、ロマネスク様式。ゲオルグ教会などとともに、最初に城塞が築かれた当時のもの。
 稜保からはザルツブルク市
街の美しいパノラマを堪能す
ることができる
(→)。
拷問室 ★レックトゥルムの拷問室

城塞は政治犯の監獄として使用されていたことがあり、レックトゥルム(鉄棒の塔)には深さ6mの地下牢がある。
大司教ディートリッヒもここに5年間監禁されて世を去った。、

黄金の小部屋 ★黄金の小部屋
大司教の居間だった部屋で、天井や壁の独特の装飾が美しい部屋。
特に豪華なのは、1501年に制作された後期ゴシック様式のタイル張りの暖炉(写真左の右端)。非常に細かい装飾が数多くなされており、ザルツブルクの守護聖人ルーペルトほか、上段には大司教コイチャッハ、ドイツ王マクシミリアンの肖像などが見られる。中段部分は「受胎告知」など宗教を題材にしたもの。
黄金の広間 ★黄金の広間

権勢を誇った大司教が祝祭典や饗宴を催した広間で、現在では城塞コンサートが開催されている。
存在感のある4本の大理石のらせんの柱が壁に沿って並んでいるほか、金メッキの鋲をちりばめたブルーの天井は星空のようで、独特の空間をつりだしている。

★マリオネット博物館
領主の地下室にあり、マリオネット劇場で使われた人形を展示する小さな博物館。モーツァルトのオペラ「魔笛」に登場するパパゲーノの人形や映画「アマデウス」に登場した人形などもある。自らマリオネット人形を操ってみることができる
★城塞博物館
かつて大司教の居室であった部屋の数々に、歴史的な家具や武器などが展示されている。
★ライナー博物館
第一次世界大戦中にロシアと南チロルで戦闘に参加した「ライナー大公連隊」(第59歩兵連隊)に関するものが展示されている。

城塞内をめぐる通路 城塞の外側 城塞から市街へ降りる道
見どころハイライト

としました。この時代にホーエンザルツブルクは中世式の砦から近代の城塞に生まれ変わりました。
 
また、ドイツの三十年戦争でバイエルン選挙侯マクシミリアンをかくまったことから、城塞は「救助の砦」と呼ばれました。さらに、17世紀後半になってオスマントルコの脅威が迫ってくると、時の大司教マックス・ガンドルフ・フォン・キューエンブルクは、北側にキューエンブルク稜堡を築いた。

★19世紀〜

 堅固な守りを維持していたホーエンザルツブルクでしたが、圧倒的な強さを誇るフランスのナポレオン軍の前に、戦闘なしに占領されてしまいます。1803年には宗教領主制が廃止され、1816年からザルツブルクは神聖ローマ帝国領となりハプスブルク家の支配する地となりました。この後は、ホーエンザルツブルク城塞は、兵舎か監獄としてのみ使用されることとなりましました。
 19世紀中頃には、ウィーンやミュンヘンに鉄道が開通し、ザルツブルクにも観光の時代が訪れました。1861年からは、ホーエンザルツブルクの城塞見学が一般に許されました。城塞から見下ろすザルツブルクのパノラマや城塞を巡る細道などがロマンチックな名所として観光の人気スポットになっていきます。そして、19世紀の終わりにはケーブルカーも設置。現在では年間90万人ほどの人々が訪れ、ウィーンのシェーンブルン宮殿に次ぐ、オーストリア第二の観光名所となっています。

★11世紀後半 
 城塞の歴史は、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウスの聖職叙任権闘争にさかのぼります。
 当時の大司教ゲプハルト・フォン・ヘルフェンシュタイン1世は、弱体化した皇帝の権力に対し、自らの地位を高めようと教皇側に味方しました。
ころが、歴史的に有名な「カノッサの屈辱」にて、ハインリヒは教皇と和解。このため大司教は、皇帝の報復を恐れて、城塞を築く必要に迫られたそうです。結局、ゲプハルト大司教は亡命を余儀なくされ、ホーエンザルツブルクの城塞建築は後の歴代の大司教に引き継がれました。
 着工初期の建物は、塀に囲まれたロマネスク様式の居館で、今日も城塞の中心となっている部分です。

★15世紀後半
 13世紀以降の大司教領は、南のハプスブルク家、北のバイエルンなど周辺諸国の脅威にさらされていました。15世紀後半にはこれらの攻撃に備えて、城塞の強化が図られ、4つの塔(鐘楼・薬草塔・鍛冶の塔・囚人の塔)が建てられました。
 さらに、市民の反乱にも手こずったため、城塞の南側に陵墓が築かれたほか、ノンベルクへ向う東側登り口も防壁で強化されました。また、最初の武器庫と穀物貯蔵庫も加えて造られています。

★16世紀初め 
 時の大司教レオンハルト・フォン・コイチャッハは、自らの権力のシンボルとして城塞の拡張を行ないました。また、市内の大司教宮殿が危険にさらされた際に備えて、城塞の居住部分の改築が図られます。城内見学の目玉でもある「黄金の小部屋」もこの時代に建てられたものです。
 こうして、城塞はさらに拡張されましたが、この時期にはロマネスクから後期ゴシック様式へと建築の趣が変わっています。また、ゲオルグ教会や城塞へ物資を運ぶ引き上げ軌道などもこの時代につくられました。

★16世紀中頃〜
 16世紀の初めは、領内のタウエルン金鉱山の坑夫の反乱で至難の時を迎えます。この鉱山からは、当時の全世界の産出量の3分の1の金が生産されていました。反乱軍は14週間に渡り城塞を包囲しますが、難攻不落なホーエンザルツブルクは大司教を守り抜きました。時の大司教マティアス・ラングは反乱首謀者27名を厳しく罰し、城塞東北部の崖の上に強力な保塁を建設しました。


★17世紀初め〜
 17世紀初めに在位した大司教ヴォルフ・ディートリッヒ・フォンライテナウの治世には、レジデンツ(大司教宮殿)ミラベル宮殿など市内の歴史的建造物が次々と建てられましたが、ホーエンザルツブルク城の増改築はほとんど行なわれませんでした。続く、大司教はヘルブルン宮殿を建築したことで名を残すマルクス・シティクス・フォン・ホーエネムスでしたが、彼の時代には前任の大司教ディートリッヒを城塞内に監禁するという出来事も起きています。
 そして、次の大司教パリス・ロドロン伯爵はバロック時代にふさわしい壮大な築城工事を行ない、城塞をさらに堅固な砦

城塞とザルツブルクの街

1553年頃

1450年頃の城塞

1553年頃の城塞

1450年頃の城塞

城ものがたり 

どらまちっく・ひすとりー 旅とともに...

ホーエンザルツブルク城 ホーエンザルツブルク城
街を見下ろすメンヒスベルクの丘に立つザルツブルクのシンボル的な城塞。1077年に着工し、その後、約700年間の間、増築を重ねて現在の形に、、。 現在は、ふもとからケーブルカーも出ており、城内の見学コースを音声ガイド付きで見学することができます。

  →見どころハイライトへ
ゲオルグ教会 ★ゲオルグ教会

城塞の中庭にあり、1500年に大司教コイチャッハによりつくられた後期ゴシック様式の教会。軍人の守護聖人である聖ゲオルグに捧げられたもの。外壁には、コイチャッハのレリーフがある。
ゲオルグ教会内部
城塞の内部
アルプス方面の景色
↑ホーエンザルツブルク城よりアルプス方面の景色