フォンテーヌブロー歴史画
▲ナポレオン3世時代つくられた「暦の回廊」には、フォンテーヌブローにまつわる歴史に関した絵画などが展示されている。この絵は、「フォンテーヌブローでシュリーを赦すアンリ4世」という作品。
楕円形の中庭 泉の中庭
▲宮殿の最も古い部分である「楕円形の中庭」。正面はアンリ4世の時代に建てられた「ドフィーヌの扉」。左側の建物は「フランソワ1世の間」や「ルイ13世の間」などのある王の住居棟。 ▲「鯉の池」のほとりに広がる「泉の中庭」は3つの翼館に囲まれている。この写真は、「美しき暖炉の翼館」と「フランソワ1世の回廊」のつなぎ目付近。
レオナルド・ダ・ヴンチの死 月と狩の女神に扮したディアナ
▲「レオナルド・ダ・ヴィンチの死に立ち会うフランソワ1世」を題材にした絵画 (18世紀後半の作)。フランソワ1世は1516年にミラノからダ・ヴィンチを招き、アンボワーズ城近くのクルーの館を与えて保護した。
▼アンリ4世の時代に基礎が作られた
大花壇
フォンテーヌブロー派の画家によって描かれたディアーヌ・ド・ポワティエ。その美貌で、19歳年下の国王アンリ2世の愛を独り占めし、宮廷では王妃以上の存在であった。この絵は「月と狩の女神」に扮した姿が描かれている。
大花壇
フォンテーヌブロー宮殿
王妃の寝室 ←歴代の王妃のために
改装が重ねられた「王妃
の寝室」。







↓宮殿の脇に佇む「鯉の池」では、華やかな催しが行なわれた。池の中に建てられたパヴィオンで夜食などが用意された。
1900年頃の宮殿外観

↑フォンテーヌブローへの半日観光
玉座の間 1890玉座のナポレオン
▲1900年ごろの「玉座の間」の写真(ウィキメディア・コモンズよりと玉座のナポレオン。当時のナポレオンの玉座は、現在、ルーブル美術館に展示されている。
エルバ島へ旅立つナポレオン
←ナポレオンは「白馬の中庭」で部下たちと涙の別れをして、流刑地であるエルバ島に旅立った。そのため、この中庭は「別れの中庭」とも呼ばれている。


↓「絵皿の回廊」に飾られた絵皿の1枚。この皿に描かれているのはディアナの庭園。
絵皿の回廊の1枚
宮殿正面
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フォンテーヌブロー宮殿その歴史
王家の狩猟の館としての時代 (12世紀〜)

  正確な時期は不明ですが、フォンテーヌブローに城砦があったことが知られており、当時の名残が「楕円形の中庭」のドンジョン(主塔)に残っています。この場所に、王の寝室があり、尊厳王フィリップ2世聖王ルイ9世、美貌王フィリップ4世などが使用しました。特に、聖王ルイはフォンテーヌブローを愛し、1259年には三位一体修道会の修道院を建てています。


フランスにイタリア芸術が
     花開いたルネサンス期 
(16世紀)

 度重なるイタリア遠征によって、イタリアのルネサンス芸術に魅了されたフランソワ1世は、国家の威信を高めるため、自ら芸術家をイタリアより招聘し、国家的な芸術復興を推進ようとしました。そこで、フォンティーヌブローをこよなく愛したフランソワ1世は、1528年に元々あった王家の狩の館を元に、新しい宮殿の建設に着手。中世からの建物を残しながら、現在の南門(黄金の門)を含む「楕円形の中庭」を囲む建物のほとんどを建築しました。「舞踏会の広間」「サン・サチュルナン礼拝堂」「エタンプ夫人の寝室」などがその代表で、今もその姿を残しています。

 そして、「馬蹄形の階段」を備えた現在の主要棟を建築し、さらに2つの建物群を結ぶための「フランソワ1世の回廊」を作りました。イタリア人芸術家のロッソ・フィオレンティーノが装飾を担当し、ルネサンスの香りのあふれる優美で洗練された空間が演出されました。
 フランソワ1世はこの時期、フォンテーヌブローに多くの芸術家を集めて庇護し、「フォンテーヌブロー派」と呼ばれる芸術家たちが活躍した。また、王はレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロの絵画を始め、彫刻、タペストリーなど様々な芸術品を集め、フォンティーヌブローはヨーロッパの芸術の一大中心地となりました。この時代ごろから、舞踏会などの華やかな祝祭が頻繁に催されるようになり、宮殿はその舞台となりました。
 
 フランソワ1世の後を継いだアンリ2世は、宮殿の大規模な拡張を実施したほか、「舞踏会の広間」ほか室内の装飾にも力を入れました。そして、その王妃カトリーヌ・ド・メディシスが続く3人の国王の摂政として実権を握った時代を経て、1553年よりフランスの王位はヴァロア家からブルボン家のものへとなります。

 ブルボン家初代のアンリ4世もまたフォンテーヌブローを愛し、様々な拡張や芸術的装飾を行ないました。この時期には第2期フォンテーヌブロー派と呼ばれる芸術家たちによって「ディアナの回廊」や「牡鹿の回廊」がつくられ、「ルイ13世の間」「三位一体礼拝堂」の円天井の装飾なども手がけました。また、アンリ4世は庭園の整備も行ない、樹木の生い茂った庭園に1200mもの長さの運河を設け、大花壇も整備しました。


華やかな宮廷文化の舞台となった
        絶対王政の時代 (17世紀)

 「ルイ13世の間」にその名を残すルイ13世は、1601年にこのフォンテーヌブロー宮殿で誕生しました。父アンリ4世の暗殺により1610年に8歳で王位につき、フランス絶対王政の基礎を築きました。 現在、宮殿の中心となっている「馬蹄形の階段」はルイ13世の時代に改修されたものです。
 そして、太陽王ルイ14世の治世にフランスは絶対王政の頂点を迎えます。この時代から、王の定めによって毎年秋9〜11月の狩の時期に宮廷が丸ごとフォンテーヌブローに移されるようになり、それに合わせて宮殿は大幅に改築されました。さらに1683年に秘密結婚をしたマントノン夫人のために、王は「マントノン夫人住居棟」といわれる部分の改装も行なわれています。
 太陽王によってフランスの絶対王政が確立すると、王とそれを取り囲む貴族たちの宮廷文化はさらに華やかになっていきます。その後のルイ15世、ルイ16世の時代にフォンテーヌブローは多くの建物が新築されました。ルイ15世は、「国王の階段」を新設したほか、「会議の間」を新装するなど住居棟の配置や装飾を大幅に変更しました。ルイ16世の時代には、王妃マリー・アントワネットのために一続きの3部屋(遊戯室・寝室・私室)が当時の流行に合わせて装飾されました。


ナポレオンの栄光と挫折
     、、、そして、その後 (19世紀)

 1789年にフランス革命が発生すると、これまでの華やかな宮廷文化は一気にくつがえりました。長い革命期にすべての王宮は調度品が売却されるなど荒廃。フォンテーヌブローもその例外ではありませんでした。しかし、その後、皇帝となったナポレオンが、フォンテーヌブローを自らの権威の象徴とし、再び宮殿を君主のための館として復活させました。
 ナポレオンは、自分の住みやすいように「ナポレオン1世の住居棟」を機能的に改装するとともに、自分の好みにあった家具調度を新調。また、皇后ジョゼフィーヌや後に再婚した皇后マリー・ルイーズのためにも私的な新しい居住スペースを整えました。そして、元々「国王の寝室」であった部屋を「玉座の間」として豪華に改装したほか、放置されていた「ディアナの回廊」を図書室として見事につくり替えました。それに加えて、西側の建物を壊して鍛鉄の格子門を設置するなど、現在のフォンテーヌブロー宮殿はほぼこの時代に整えられました。また、軍人であるナポレオンは、ルイ15世の翼館に特別仕官学校を設置しています。
 ナポレオンはフォンテーヌブローの宮殿で退位を決意し、流刑地エルバ島へ旅立って行きましたが、「フォンテーヌブローはまさに王たちの住居にふさわしい館である。ヨーロッパ中を探しても、これほどくつろぎを覚え、幸せが感じられる場所は他にない」と後に言い残しているそうです。

 続いて、フランスはルイ18世・シャルル10世の王政復古の時代を経て再び革命が起こり、ルイ・フィリップが王位について「七月王政」と呼ばれる治世となりました。そして、この時代にフォンティーヌブローは最後の大規模な改修が実施されました。「絵皿の回廊」や「衛兵の間」などがその部分です。
 そして、1852年からのナポレオン3世の第二帝政の時代、フォンテーヌブローは最後の輝きを見せます。皇后ウージェニーにより宮殿の改装が行なわれ、「中国博物館」を創設しました。当時のヨーロッパは東洋ブームであり、皇后により改装されたサロンにも中国の美術工芸品が数多く展示されています。
 
 パリからも日帰り圏内のフォンテーヌブローは、王家ゆかりのこの宮殿のほか、ロッククライミングでも有名な場所。印象派の画家たちの愛したバルビゾンの村にも近く、多くの観光客を集めるフランスの人気スポットとなっています。